2019年も早1ヶ月が過ぎました。
今年は先月ラスベガスで行われたCESを見てもわかるように、いよいよ2020年から始まる5Gのフルスケールサービスに備えの年であります。
本格的に5Gが始まれば、いよいよコンピュータ社会が構築されていき、多様性のある社会になっていくわけですが、そういった新しい時代と言うだけで何となく怖いとか、どうすればいいのかといった不安になる方もいらっしいます。
多様性という新しい時代の中で生きていくために必要なことは、もちろん色々あるんでしょうが、まずは何といっても私たちの思考・マインドのアップデートをしなければ話になりません。
なぜなら、多様性の時代においては、従来の常識が全く通じなくなる社会環境になるからであります。
思考のアップデートとは、脱従来の常識であり、それはすなわち脱近代であります。
そもそも私たちの基本的なモノの考え方や習慣は、教育や社会環境の中で培われてきたものです。
その教育や社会環境のベースになっているものが何かといえば、明治維新以降に西洋から入ってきた近代教育ですよね。
そして、近代教育のベースにあるものといえば、それが西洋文化であり一神教のものの考え方であります。
無意識の中で、私たちは一神教の考え方がごくごく当たり前になっておりまして、例えば普段何気になく使っている「普通」なんて言葉も、この近代で生まれた言葉です。
「あいつは普通じゃない」とか「普通はこうでしょう」なんて言いますが、普通って何ってこともあるんですが、普通と普通じゃないと分ける考え方で、0か1かみたいなところがありまして、これが一神教なわけす。
他にも、東京一極集中であったり、あこがれのマイホームだったりと、「みんながそっち」みたいな傾向はまさに一神教的ですよね。
一方日本は、そもそも東洋文化だったわけで、
東洋文化ですから、海の神、山の神じゃありませんが、多神教なわけす。
多神教ということは、みんなそれぞれ色々という考えがベースであります。
なので、そもそも「これが普通」なんて考え方はなかったわけす。
ただ、西洋的な考え方は戦後の日本の時代背景を考えるとともて重要であり、近代教育はとても合っていたと思います。
その結果、日本は高度成長をして先進国になれたわけですから。
しかし、この考え方が多様化する時代には合わないわけです。
ではなぜ多様化時代においては合わないのか?
それは簡単に言ってしまえば、コンピュータ社会になるからということになります。
ご周知のとおり、コンピュータ社会になると、労働はスパコン・AI・IoT・ロボットなどのテクノロジーによって回すことが可能になります。
と言うことは、わざわざ人間がやらなくてもいい労働は、今後積極的に人間からコンピュータへと受け渡していくことになります。
その受け渡していく範囲・分野は、テクノロジーの進化に伴って増えていくわけですが、そうなると、労働から解放された私たちは何をすのかというと、一言でいえば好きなことをするということになります。
例えるなら、いまの年金受給者のようなものでしょうか。
ご老人をイメージしていただくとお分かりいただけるかと思いますが、彼らの日々の暮らしの基本は「好きなことをする」です。
囲碁や卓球、盆栽にサーフィンなど趣味に没頭する人、旅行三昧の人、改めて大学に通う人、仲間を集めて事業を始める人など、みんなそれぞれですよね。
ご老人が労働をしなくても経済が回るのは、若者が労働しているからで、それと一緒で、これからはあらゆるテクノロジーが動いて経済を回していくので、人間が労働する必要がない。
近い将来、私たちはいまご老人がやっているように、自分の好きなことをしながら暮らすようになります。
そして、その好きなことで収入を得る人もいれば得ない人もいると。
収入を得るためにわざわざ嫌なことをしなくても暮らしていける社会なわけですから、好きなことだけに専念できるわけです。
そうなってくると、従来の社会と言いますか、今もそうであるように、私たち人間が労働を行って経済を回したり社会環境を維持する必要がないので、みんながみんな同じ教育を受けて、学力・知識の平均値を上げていくことにもあまり意味がないということになります。
要は、みんな一緒の勉強というものも本当に最低限のものでよくて、その後は各々が自分の好きなことに応じて勉強をしていけばいいわけです。
見方を変えれば、勉強もまた好きなことに含まれていると言うことです。
そうやっていままでのマインドを開放して東洋的に捉えてみれば、
今尚続いている学校の近代教育だったり、みんなが憧れた夢のマイホームなんてものが時代にあってなく、現在の非常識であることに気が付くわけです。
障害者なんて言葉もそうですよね。
AIでいえば、既に目と耳はできているわけです。
陸上の国際大会でも、義足を付けた選手が健常者の記録を上回ったりしました。
すると、仮に義手で300㎏を持ち上げられるとしたら、健常者であっても今後片手を義手にしたいという人はでてくるかもしれません。
そうやってテクノロジーが人間を助けてくれる環境になると、障害という概念はなくなりますよね。
まさにコンピュータ社会による多様化ということであります。
いま、仮に18歳のお子さんがいるとしましょう。
彼はサッカーに夢中だとします。そして、彼はサッカーはサッカーでもプレイヤーではなくサッカーチームを持つことに興味があったとしましょう。
彼は、両親に「プロのサッカーチームを持ちたいけどどうすればいい?」と相談をしました。
もし、あなたが彼の親なら何てアドバイスをしますか?
「じゃあ今は勉強しっかりやって、大学いって・・・」なんて言っちゃいますか?
そうじゃないですよね。
「やりたいんだったら、やりなさい。あーしてこーして、こうすればいいと思うよ。もし、必要なら〇〇〇を紹介してあげれるよ・・・」と、
中身はちょっと別としても、大事なのは従来の常識にとらわれないといことであります。
年齢なんて関係ないですよね。
「これがやりたい」というのであれば、行動を起こすこと、やればいいですよ、今は。
その足を引っ張るのは、脱近代ができていない従来の親と先生なわけす。
コンピュータ社会になれば、私たちの仕事が奪われるなんてことを今だに言っている人がいますが、そうではなく、AIを代表するコンピュータは、私たちの社会環境をサポートしてくれるパートナーのようなものということがお分かりいただけると思います。
多様化の時代はもうすぐそこまで来ております。
そして、ようやく人間は人間らしく生きられる時代になってきた思います。
まずは従来の思考から現在の思考へとアップデートすること、これが多様化時代を自分らしく生きていくための最初のステップなんだと思うのです。
では次回!