前回に引き続き、「下町情緒」と「現代」が融合した門前仲町のぶらり散歩をお届け致します(前回の記事はこちら)。
「深川のお不動様」を訪れた後、向かった先は「富岡八幡宮」です。こちらものちほど詳しくご紹介致しますので、先に進みます。
「八幡堀遊歩道」を散歩致します。
この遊歩道には「八幡橋(はちまんばし)」という日本の鉄を使った最古の橋があります。
元は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)であり、「旧弾正橋」「元弾正橋」とも称されます。1977年近代架橋技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定。1989年にはアメリカ土木学会から「栄誉賞」をうけた由緒ある橋でもあります。
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。 by ドストエフスキー
八幡橋は、明治11年(1878年)に東京府の依頼により工部省赤羽製作所が作製した長さ15.2メートル、有効幅員2メートルの単径間アーチ形式の鉄橋です。もと京橋楓橋(中央区)に架けられ弾正橋と称しておりましが、、大正2年(1913年)の市区改正事業により新しい弾正橋が架けられたので元弾正橋と改称した。関東大震災(大正12年(1923年))後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となりました。東京市は昭和4年(1929年)5月に現在の場所に移して保存し、富岡八幡宮の東隣りであるので八幡橋と称したということです。
もちろん渡ることもできますよ!
いよいよその八幡橋を渡ってみます。
かつては北東から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差しており、この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かっていました。この三橋を三つ橋と総称していたそうです。
こちらは旧新田橋。さきほどご紹介した八幡橋(旧弾正橋)が架かる八幡堀遊歩道に置かれています。
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932年)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものなんだそう。いつしか「新田橋」と呼ばれるようになり、映画やテレビの舞台にも登場た橋でもあります。当時ことを知る人はいるでしょうか。
八幡橋のすぐお隣には人力車の形のオブジェがあります。
人が多い観光地に行くより、その地域の歴史発見ツアーをしたほうが私は色々な新しい発見があり、面白いです。
お金もかかりませんしね。ここは首都高速9号の深川線下。
ここ実を言うとこの首都高の下を通れば雨に濡れる心配がないんです。この辺りに住む人にとっては傘なんてささなくてもよいという天国のような場所なのかもしれません。
お次は「三十三間堂跡」。
江戸時代に江戸の富岡八幡宮の東側にあった江戸三十三間堂(えどさんじゅうさんげんどう)という仏堂の跡地です。京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて、寛永19年(1642年)11月、弓師備後という者が幕府より浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まりです。京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称したと云われます。
今日はここでおしまいです。お次は「【散歩】たみ散歩「東京・門前仲町」 Vol.22 江戸時代からの情緒が香る下町を散策する!③」をお届けしますのでお楽しみに!
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written by tamito0201(たみと)