旧永代寺の門前という事で名付けられた江東区の門前仲町。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として旧永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島に創建されました。成田不動の出開帳を行った寺院としても知られております。
江戸六地蔵の一つとして栄えましたが、その後明治初年の神仏分離により廃寺となり、これからご紹介する現代の永代寺は、明治29年に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されました。
跡地は現在の深川公園や深川不動堂がある場所に旧永大寺はあり、深川一帯でも指折りの広大な寺院であったとされます。早速その門前仲町のルーツを探る旅に出発いたしましょう。
永代寺は、寛永四年(1627)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建されました。
永代島というのは現在の永代橋東側一帯を指し、隅田川河口の砂州で長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立したとされます。
現在の深川公園辺りは、かつての永代地庭園の一部であった所で、普段は非公開でした。毎年3月21日から28日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれています。
江戸六地蔵の一つとしても数えられる永代寺。その江戸六地蔵は第一番:品川寺(第一番真言宗醍醐派)、第二番:東禅寺(曹洞宗)、第三番:太宗寺(浄土宗)、第四番:真性寺(真言宗豊山派)、第五番:霊巌寺(浄土宗)、第六番:永代寺(高野山真言宗)になります。
残念ながらこの永代寺は富岡八幡宮の二の鳥居付近にありましたが、明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊されました。現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されております。
「これはわが子、これはわが財宝と考えて愚かな者は苦しむ。己さえ己のものでないのに、どうして子と財宝とが己のものであろうか。」(仏教聖典)
ちょっと気になりましたので、仏教聖典を調べてみました。
言葉だけが美しくて、実行の伴わないのは、色あって香りのない花のようなものである。花の香りは、風に逆らっては流れない。しかし、善い人の香りは、風に逆らって世に流れる。眼ることの出来ない人に夜は長く、疲れた者に道は遠い。正しい教えを知らない人に、その迷いは長い。
道を行くには、おのれにひとしい人、またはまさった人と行くがよい。愚かな人とならば、ひとり行く方がまさっている。猛獣は恐れなくても、悪友は恐れなくてはならない。猛獣はただ身を破るにすぎないが、悪友は心を破るからである。
これはわが子、これはわが財宝と考えて、愚かな者は苦しむ。おのれさえ、おのれのものでないのに、どうして子と財宝とがおのれのものであろうか。
仏教聖典抜粋。
深いですよね。仏教聖典の一つ一つの言葉が全て真実を物語っているかのようです。
如何でしょうか。深川不動尊の参道にあるお寺「永代寺」。高野山真言宗の寺院で門前仲町という地名はこの旧永代寺の門前という事で名付けられたんです。こうしてお散歩をするだけでも日々新たな発見があります。歴史を辿る旅も面白いものではないでしょうか。
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written by tamito0201(たみと)