時代は遡ること江戸時代。文人墨客のサロンとして使われた花園が今も東京都墨田区東向島にあります。その花園が「向島百花園」です。向島百花園は、江戸時代文化2年(1805)頃、佐原鞠塢いう粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。
入園料は大人150円、65才以上でしたら70円と格安です。
そうなんです、先日もブログで申しましたが、この花園に行くために東向島に行ったといっても過言ではありません。庭園散歩が最近の趣味なので・・・。
この往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2年(1845)には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
なんといってもこの庭園の魅力は芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑と、園全体に秋の七草などの詩歌にゆかりの深い草木類を多彩に植え込み、やがて、江戸の町人文化爛熟期の文人趣味豊かな名園として、庶民に親しまれるようになっていったとされます。
早速芭蕉の句が刻まれていました。
「春もやや 気色ととのふ 月と梅」。元禄6年(1693年)の春の句です。
月は朧に霞み、梅は花をほころばせて、春もようやくその気配を調えてきたようだ。厳しい冬が過ぎ、徐々に春めいてくる早春の情趣を、月と梅の取り合せで描いています。
「鳥の名の 都となりぬ 梅やしき」
この句碑からも当時向島百花園が新梅屋敷だったことが読み解けます。
「雲山先生看梅詩碑」
向島百花園はこの絵灯籠が園内の至るところにあります。
「望の月 雲の切れ間の 長くあれ」。
五月女静香氏の作品。月と雲の描写が伝わってきます。ここにも俳句が飾られています。
「女友の 手にもて遊ぶ 秋扇」。深いですね。この句を詠んだ方には何があったのでしょう。
児玉寿子氏の作品です。
「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(くさ)の花」
奈良時代初期の歌人である「山上憶良」の作品です。
赤い和傘と庭園のコントラストは実に映えます。
「四季百花の乱れ咲く園」。この花園は唯一現代に残る江戸時代の花園なのです。
「梅洞水」という「古井戸」がありました。
向島百花園を開いた佐原鞠塢が選んだ「秋の七草」の立て札が設置されていました。
「ねりの花、ごじ、ゆうがお、おしろい花、たまずきは、ひおうぎ、書くりんどうの花」。園内で全て探しきれるでしょうか。
「名園や 江戸町民も 見たる月」。
山田昭義氏の作品です。月の姿というのは時代が変わっても我々の見たる月は同じですものね。
ちなみに春の七草は「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」です。
俳句が好きな方は、秋の七草を思い浮かべながら一句読んでみるのもいいかもしれません。この後私も一句読んでみますのでお楽しみに。
小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
売店はどうやら閉まっているようです。
こちらは「花の棚」。5月上旬頃に見頃を迎えるフジの花を鑑賞できます。
秋の空に似合う彼岸花が咲いています。
埼玉県日高市の「巾着田曼珠沙華公園」の彼岸花は圧巻ですよね。
園創設者の佐藤鞠塢が大切に信仰していた「福禄寿」が祀られていました。
TDRより僕は楽しいです。
今日はここで御終いです。お次は「【庭園】東京・東向島の「向島百花園」。江戸時代に文人墨客のサロンとして使われた花園を巡る!②」をお届けしますのでお楽しみに!
written by たみと(たー)