まだワニのこと書いてんのかよ!という指摘を受けそうですが、関連記事を見るにつけ「ホント?」「そうなの?」と思うことが多く、後々この事例を振り返った時にそれらの記事だけが残ることに疑問を感じたため、別角度の切り口から書き残しておきたいと思った次第です。
ちなみに100日後に死ぬワニが話題になったのは3/20のこと。3/22に再度の盛り上がりを見せましたが、Googleトレンドのデータが示すようにその盛り上がりは沈静化してしまった。
ここで3つ記事をご紹介します。
1つ目。電通案件ではないことを検証する記事があったが、それに何の意味があるのか正直意図が分からない。当事者たちが電通は関わっていないと言っている以上、そこを深掘りしても何の意味もないと私は思うのだがこういう記事にもニーズがあるのだろうか。ちなみに、電通がやっても炎上する時は炎上する。
2つ目。ステマ文脈で語る記事があった。個人的にはステマ案件と関連付けて語ることに意味が感じられない。なぜなら、ワニはコンテンツありきの施策でそれをマネタイズする時に炎上が発生したことが本質で、そもそも”ステマ”は商品をPRする際にそれが費用を負担する広告主がいることを明示しないことにある。マネタイズ案件は途中から付いてきたという作者きくちさんの話をベースにするならば、これをステマ案件と同じ文脈で語ろうとする時点でナンセンスと思う。
ビジネス系のメディアなのにこんな記事でいいの?知らんけど。
一番まともだと思うのが東洋経済さんの記事です。これら3つの記事を読んだだけでも、我々読者側のリテラシーが確実に試されているので、かなり心してメディアには向き合わないとよく分からないもの摑まされると思う。
人様の記事にイチャモンばかりつけてお前はどうなんだよ?という感じですが、備忘録的に私の意見も残しておきたいと思います。
我々は日々処理仕切れない量の情報に晒されています。そうなれば、対峙する情報に条件反射的に(よく考えず)反応するだけで、吟味したりその真偽を考察することを放棄している可能性がある。少し調べれば分かるのに、その労力を惜しんでいるのかなんなのかフェイクニュースを垂れ流す人が目立ってきているし。いちいち細かく調べたり、時間を掛けて考えていては流れに乗れないしコスパが悪すぎるのだろうが、本来必要なことには時間をかけて調べたり考えるべきだと思う。
だから、私としてはいくらコスパが悪かろうが、世の中が考えるのも(読むのも)面倒で求めていなかろうが、きちんと整理して消化しておきたいと思う。(それにもし同じように考える人がいるのならば少しでもその人の為になるコンテンツになればとも思う)
さて、メディアはじめ色々な方が考察を公開していますが「100日後に死ぬワニ」の一件のポイントは以下の3点ではないだろうか。
・ユーザーの嫌儲的な姿勢
・読了後の余白を残さなかった運営側
・異常な盛り上がりを演出するSNSの拡散力
嫌儲。この事象を「けんもう」と呼ぶことを恥ずかしながら今回初めて知りました。。儲けることが悪いことなのか?という古典的な問いはここ日本においても昔から語られている。記憶に新しいのはホリエモン(堀江貴文さん)が拝金主義の権化みたいに語られていた時代がありましたが、昨今では行儀の良い?起業家が多数出現しているから(単に悪目立ちして嫌われなかっただけと思うんだけど)「起業家=金」というイメージは薄まり、ライフスタイルとしての起業(企業で働くことだけが全てではないというオルタナティブな生き方を目指す)を目的とした起業家が多くなった印象です。
しかし今回のワニがキッカケとなり、また世間の嫌儲的な感情スイッチを刺激したように思います。(それでも徐々に忘れられ始めている気がしますが、、)
良い行いも良い物語も金の匂いがした途端にその価値が激減してしまう。この語り口って「NPO」や「NGO」などの非営利団体や「社会起業家」が目立った時にも語られているんですよね。必要最低限(つまり事業を継続するのに必要なだけ)しか儲けないという姿勢を先んじて彼らが表明したのは、彼らに向けられた世間の視線が「儲けより清貧」を求めたからに他ならならず、しっかりその空気を読んだ人たちが増えてきたと感じる訳です。(勝手にガラスの天井を設定されてしまえば、事業を大きく成長させようというモチベーションも無くなると思うけど)
今回ワニについて語られていた論調として多かったのは「コンテンツを使って儲けることが悪いのではない。読了後の感傷に浸っている時に金儲けの話をしてきたから嫌なんだよ」というものでした。
海外がどうなのかは分かりませんが、そういった反応をみていると日本のユーザーって結構厳しい基準をクリエイターの方々に課しているように思うんです。例えば下記のような、必要十分条件を満たす条件です。
良いコンテンツだから人はお金を支払うのではない。良いコンテンツなのは必要条件で、気持ちよくお金を支払わせてくれないと嫌だ。
一例を挙げるなら、少し前に世間を騒がせた「コンビニ店員に辛く当たる人問題」です。必要最低限のサービスを提供しているだけではダメだ、コンビニであっても客の気分を害さない程度のクオリティの高い接客をしろ「俺は客だぞ?」というモンスター級のクレームをいれる人たちの存在です。海外旅行に行ったら実感されると思いますが、サービス料を取るような高級店を除けば店員さんのサービス質は決して高くないと思います。しかし、それを雑だと感じるとすれば我々が日本人だからでしょう。働く彼らからすれば、与えられたジョブはこなしているのに何故それ以上のものを求めるのだろうか?だったらチップをくれよと考えることでしょう。
昨今CX(Customer Experience)が重要だとされています。価格や機能での差別化が難しくなり、差別化のポイントとして購買の過程をスムーズにしたり、購入後のフォローアップを充実させるといった企業側の付加的なサービスの必要性が説かれています。一方で、それをしないことには自社で買い物をしてくれないという背景もあるでしょう。大企業同士の生き残りを掛けた競争であれば、消費者の為にもなるしどんどんやってよということになるかもしれませんが、それと同じことをTwitter上にどこからともなく発生したコンテンツに対しても同じように求めて行くのでしょうか?
ここでAKB商法を思い出しました。
CDを買うとついている握手券欲しさに同じCDを数十枚、多い人は数百枚購入すると聞きます。彼らは運営側の意図など気づいていると思うし、よもやその行為を金儲けが過ぎると指摘して辞めさせることはないでしょう。嫌ならそのゲームから降りればいいだけですし、そんなゲームであってもコンテンツの魅力が強すぎるがために「推しを応援したいから喜んで買う」「握手の為に仕方なく買う」という人がいて、アイドルに関しては気持ちよく支払うという話以前にコンテンツパワーの成せるわざであるなと思います。
あれだけ多くの人に感動を与えたワニに足りなかったもの、それは何だろうか?
無料だと思ってたのにこれ営利目的だったの?というガッカリ感なのか、「死」をお金に変えようとしたからなのか、不思議なのは、最終回の100日目を迎えた3/20時点では誰もお金を支払っていなかったということだ。つまり実害としての損を被ってはいないのに、何に多くの人が感情的になってしまったのか?正直これが足りなかったから炎上したというクリティカルなものはないと思えるのに(上手い下手はあったかもしれないが)。
彼らは無料で漫画を100日間読み(受益)、その時点では対価としては何も求められていない。結果的に、宜しければ書籍を買ったり、映画を観たり、グッズを買ってもらえないか?という打診を受けたに過ぎない。しかしあの時Twitter上にはクレームが溢れかえっていた。
これは仮説だが、彼らは既に対価を支払っていたんだと思う。それは「無償のワニ愛(とそれに伴う「いいね」「リツイート」)」と「経過した100日という時間」だろう。自分で書いていて思うが、金銭でない以上そういったものにビジネスとして向き合うことはできない。だからあのタイミングで商売の話を始めた訳だが、ユーザーとしては納得がいかなかった。
何に納得がいかないのか想像してみた。
「自分もワニを有名にしたうちの1人である」という気持ちが強かったのではないか。無名のクリエイターがTwitter上で頑張って漫画を公開している(ように見える)。だから、私が一肌脱いで応援しよう。その時点で、作者とそれぞれのユーザーが1対1の関係で結ばれていたように思う。それが、「えっ、何?仕組まれてたの?俺モブなの?なんか操られた感半端ないんですけど、キモいんですけど」になる。
図に示したような「縦の繋がり(作者とユーザー)」は強固なものになったのだけど、逆にそれが強過ぎたあまり企画の全体像が判明した時の心理的な反発が強くなったと私が勝手に分析しました(当てずっぽうです)。では、どうすれば良かったのか?唯一の解は無いと思うし、運営側は時間の無い中出来ることを最大限やってこられたと思うのでその点は最大限の敬意を払った上で、私の仮説として書き進めてみたい。
先に述べた「縦の繋がり」に対して「横の繋がり(ユーザー同士の関係)」を作ることで過剰な気持ちをコンテンツだけに担わせないことができたのではないか。Twitter上では多くのコメントが寄せられたと思うが、各人似たようなことをバラバラに言っているだけで”きくちさん”が伝えたかったようなメッセージを各ユーザーがどう解釈したかが思うように深まらなかったように感じて残念だった。
少なからず100日間の長きに渡って漫画を読んでくれた方々は、自分自身もコンテンツの一部であるという認識があったと思う。だからこそ、最後まで彼らを巻き込み続けることで”きくちさん”の思いを受け継ぐような仕組みが作れたのではないかと勝手に思う。
「読んだ後に感傷に浸る時間をくれよ」という声が多数あったようだが、彼らが欲しいのは感傷に浸る時間ではなかったはず。より本質的には「もっと感想を言わせてくれ、他の人がどう思ったか聞かせてくれ」ということだったのではないか。
ネット上のコミュニケーションで最も盛り上がるのは内輪ネタだ。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)があれだけ盛り上がったのは、そこでしか通用しない言い回しやアスキーアートが溢れ、それらの共通言語を理解した者同士が(公開の場で)閉じたコミュニケーションに終始することに価値を感じていたからだ。それを思えば、ユーザー同士が内輪的に盛り上がる仕掛けはもう少し作ってあげたかった。コアなコミュニティであれば自発的に企画を始めるユーザーが出現したりするが、多くのライトユーザーに囲まれるコンテンツの場合はやはり運営側がそういった仕掛けを用意することで盛り上がりを持続させることができたかもしれない。その点、やはりコンテンツとユーザーの「1対1の関係性」が強かったように思う(それは凄いことなんだけどね!)。
悲しいかな、最終話公開後のコミュニケーションの主題は「電通が裏で絡んでいるのでは?」とか全く意図しないところで盛り上がってしまったが、それでコンテンツの価値が毀損されたことにはならない。しかし、後追い記事も含め最後の最後まで「電通案件」やら「ステマ」やら本質とは違うところの議論に終始してしまった。それがとてももったいない。
企画が伝えたいメッセージを最後まで伝えきるには作者や企画側の胆力というか”しぶとさ”がやはり必要なんだと感じた。いきものがかりの水野さんが動画で仰っていたように、あれだけSNSで一気に拡散していくと本当に怖いものがあると思う。それなのに、あのタイミングでの動画公開という英断をしてくれた”きくちさん”と”水野さん”は素晴らしいし、やはりメッセージを受け取る側のユーザーがもう少し冷静に向き合うべきだったのだと思う。
良いコンテンツを作って下さった関係者の皆さんには、同じ業界にいる者としては心から感謝申し上げたい。