以前、このような記事を書きました。
コメントを下さった皆さま、本当にありがとうございました。後味の悪い体験をしてからというもの、オカシイのは自分なのか?と悩む日々もあり心が晴れない日々が続きました。しかし、暖かい言葉をかけて頂き救われた気持ちになりました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。
今回の記事を書いていて改めて感じたのは、現実世界をSNS最適な形に変質させる人が増えてきていないか?ということです。
どういう事かというと、昔「○○なう」などのTwitter用語が流行った時がありましたよね。それって、現実にあったリアルな事象をSNSの作法に則って皆が面白がって発信していたということだと私は解釈しています。その時は、あくまでリアルが主(メイン)でインターネット世界は従(サブ)の関係にあったと思います。しかし最近、おそらく当人たちは全く意識していないと思うのですが、現実の行動の方がむしろSNSに最適化された形で出てきていないかと思うことがあります。これまでと全く逆方向の動きです。
SNS、というかインターネットの一つの側面として「匿名性」がありますよね。5ちゃんねる(当時2ちゃんねる)なんてその最たるもので、匿名を良いことに罵詈雑言がネット上を飛び交っていました(中には良いものも沢山あったと思いますが)。先の記事にも書いた”私が遭遇した方(父親)”は、リアルな世界に存在しているにも関わらず、同じ空間にいる人たちを人として認識していない、つまりインターネット上のデジタルな情報(存在)として認識しているのでは?と思ってしまうくらい、傍若無人に振舞っていたように感じるに至りました。(あくまで私の主観なので違う可能性は大いにあります)
彼(父親)はその時私の存在など眼中になく、まるでテレビやスマホを通して世の中を見るように目の前で起きていることを消費していた気がしてならないのです。別に、現場の写真をスマホで撮影していたとか、Twitter上で実況中継をしていた訳でもない。しかしあの瞬間、彼の意識はあの現場にあったと言うより、実は自宅のリビングにでもいるかのような意識であの場に存在していたんじゃないかと考えたほどです。彼の頰を殴って、今ここにいるのが現実だと認識させてやりたいくらいでした。
そうでないと彼の行動が理解できないんです。目の前で人が亡くなり、救急隊や警察が慌ただしく動き回り、親族が泣いて悲しんでいる。少なくとも、ポジティブではない悲しい感情が渦を巻いてそこにあったはずなんです。しかし、同じ時間・同じ空間にいても何の感情も共有できないということの恐ろしさ、怖さを肌で感じた瞬間がその時でした。
FacebookやTwitterの「いいね」のようにSNSは人々の共感というのを可視化し、より共感を生み出しやすいプラットフォームを構築したと思います。しかし、それらは一体何だったんだろうと思います。現実はどうだったか?プラットフォーム上の共感を意識し過ぎるあまり、最も重要な目の前の人に対する共感というのを置き去りにしてはいないでしょうか?Instagramで必死にキラキラ生活を装いたい男女は、リアルな世界で見かけたらただ必死に写真を撮っている怖い人でしかない。だって、その人の意識や関心はスマホの向こう側にしかなく、横で買い物や食事をしている人は彼・彼女にとっては存在しない無なのだから。プラットフォーム上で何の共感も生み出さないものは彼らにとって無価値なのだろう。
かなり飛躍した話になっているかもしれませんが、現実軽視の傾向が強くなり過ぎているのではないかと危惧します。Twitterのような安全な場所(匿名という意味で)から毒を吐くような感覚を安易に現実に持ち込んではいないでしょうか?そんなことしたらどうなるか、子供でもしっかり考えれば分かるだろうに。
ネットのリテラシーがどうこうと語られていたのが一昔前のことですが、リアル(現実)のリテラシーというのが必要になった時代が来たということでしょうか。何とも世知辛い世の中になってものです。