書き始めたシリーズ第1篇。しれっと予定より1日遅れての公開です。。
第1篇では下弦の伍「累」を主題にしました。
【目次】
・鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性
・累が鬼になって失ったもの
・鬼舞辻無惨≒キュゥべえ
・累はどうして犠牲を払ってまで戦ったのか?
・累は負けて良かったと思う
・累が望んだもの
いきなりですが、参考にした「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象」(以下、同書)の序論で著者の足立氏は古典である「定本 想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン著)を引用して以下のように述べています。
この二つの問題は「戦い」に対する根本的な問いによって結びつけられる。その問いとは、「なぜ人は大きな犠牲を払ってまで戦い続けるのだろうか」というものである。この問いに取り組んだ研究者の一人がベネディクト・アンダーソンである。
「想像の共同体」はナショナリズムの古典であり、ナショナリズムの名のもとに多くの人々が国家の犠牲となり戦場で死んでいったことに触れている。内容についてはこの回では扱いきれないため省かせて頂きます。
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では鬼滅の刃の話を始めましょう。
「人間(鬼殺隊)」と「鬼」、どちらの陣営も”なぜ大きな犠牲を払ってまで戦い続けるのでしょうか?”。
今回、私は次の2点に着目してみました。
1.鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性
2.リーダーの存在(産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨)
例えば、鬼殺隊には産屋敷耀哉というリーダーが存在し、鬼には鬼舞辻無惨という絶対的な首領が存在する。彼らリーダーがその組織の成員にどう接しているかに注目すると、そこには天と地ほどの差がある。その興味深い点については追って考えてみたい。
今回は先に述べた1点目を深掘りしていきたい。
両者の関係性について述べる前に、どうやって鬼が生まれるか?について整理しておこう。鬼舞辻無惨は鬼の始祖であると言われていて、鬼舞辻が血を分け与えた者が鬼化する。例えば、今回取り上げる下弦の伍「累」は人間時代は病弱で、身体の弱い子どもだったと描かれている。そこに鬼舞辻無惨が現れる。
それは「家族(との絆)」だ。累の両親は、息子が人を殺して喰わねばならない化け物になってしまったことを憂い包丁を手に取る。しかし、これは累を殺そうとしたのではなく一緒に死のうと試みた結果だった。それに気づくのは炭治郎に負けた後であったのだが。
一度ここで立ち止まり、鬼化のシステムについて考えてみました。比較対象として「魔法少女まどかマギカ」を挙げてみたいと思います。もはや鬱アニメとしての定位置を確保した”まどマギ”ですが、世間が(少なからず私は)衝撃を受けた魔法少女誕生のシステムについて整理しておきたいと思います。ポイントは3つ。
①キュゥべえとの契約
②ソウルジェムとグリーフシード
③魔法少女の魔女化
魔法少女になれば「どんな願い」も1つだけ叶えてもらえる。しかしながらその代償は小さくない。魔法少女と人間は不可逆の関係にあり、一度魔法少女になるともう元の人間には戻れない。
変身には自身の魂を具現化したソウルジェムが必要で、魔女と闘うたびにその色が濁ってしまう。その濁りを解消するにはグリーフシードと呼ばれる物質を手に入れる必要がある。もしそれが出来ない場合、つまりソウルジェムの濁りを解消できない場合、ソウルジェムはグリーフシードになり、最終的には魔女が生まれる。本篇でも指摘される点だが、キュゥべえという地球外生命体の企みによって魔法少女は生み出され、(ある意味)少女たちは望まない戦闘に駆り出されてしまう。
ここで、構造を単純化してむりやり鬼滅の刃との関係性を見出すとすると、
キュゥべえと鬼舞辻無惨は同様の関係性にあるのではないだろうか?
キュゥべえと魔法少女の関係にあるような「願いを叶える」というプロセスは鬼滅の刃にも存在する。先ほどの累の回想シーンだ。
累は鬼舞辻の血によって鬼となり、丈夫な身体と鬼の力を手に入れた。一見救われたように思えるが、結果、彼の願いは叶わなかった。そして累はその満たされない思いを埋めようと疑似家族を作ろうとする。本来鬼は群れないものだと思われている。それは鬼舞辻が鬼たちの反乱を防ぐためと言われているが、累はどこか特別扱いを受けていたのかもしれない。鬼に血縁という概念は存在しないため、累によって集められ、役割が与えられ、彼の望むよう役を演じさせるための”ただの駒”としての疑似家族だ。しかし、疑似家族であっても累はそれを守ろうとしたように思う。
累が自分のことしか考えない鬼であったならば、鬼殺隊が大勢乗り込んできた時点で那田蜘蛛山から逃げたかもしれない。しかし、彼は逃げなかった。
もし作者が「累」を身勝手で自己中心的な鬼として描こうとしていたのであれば、一度逃げた累を炭治郎たち鬼殺隊が追いかけ追い詰め、最終的に討ち果たすというシナリオにもなったかもしれない。しかし、そう描かなかった辺りに「累はあくまで元人間である」として描いている作者の意思を感じる。疑似家族のメンバーが欠けたら新しく補充すればいい、と頭では分かっていたとしても(疑似家族であっても)家族を守りたい、家族の絆が欲しいと思っていたことは推察して余りある。対称的なのは、鬼舞辻無惨の下弦の鬼の粛清だ(それについては別回で注目してみたい)
しかしながら、家族に対する累の執着は異常とも呼べるもので、力と恐怖による支配、それが累と他の鬼との関係でした。累の心の根底にはどういった気持ちがあったのかを考えてみましょう。
自己肯定感を考えるにあたり、自分の居場所の獲得が非常に重要なポイントになると思う。累にとっては家族が居場所だったように思うが、同じくずっと自分の居場所を探し続けるキャラクターが他にもいた。「エヴァンゲリオン」の碇シンジはその代表だろう。彼は自分が他人から必要とされているということを拠り所にして戦場に身を置いていた。
父に捨てられたと思いこんでいる少年、碇シンジは「血の臭いのするエントリープラグ」にその身を投げ入れ、EVA初号機に乗る。彼はなぜ乗るのか―「みんなが誉めてくれるから」。彼は「逃げちゃだめだ」と鸚鵡のように繰りかえし、目の前の使徒に突撃していく。(中略)それなら素直に逃げてしまえばいい。むしろ恐ろしいのはそのこと。使徒から逃げることであり、その結果として誰からも必要とされなくなることなのである。碇シンジのか細い呟き―「嫌われたらどうしよう」
引用:澤野雅樹「左利きの小さな戦い―EVAに乗る者たち」『ユリイカ』青土社 1996年
著書「欲望の現象学」で”欲望の三角形”の考え方を提示したルネ・ジラールは、人間関係とそこに働く欲望を「主体・対象・媒体」の三角関係でとらえ、主体は媒体を模倣することで対象を欲望するとした。正直、よく分かりませんね。。。次の図が基本モデルなので参照してみて下さい。
このモデルには3つの主体が必要であるように思われるが、欲望の三角形において必ずしも常に3つの主体を必要とする訳ではないようだ。
ジラールは、自我は二つに分裂することで、欲望の三角形の二頂点を占めることがあるとする。自我が、自我そのものと、自我の外身である肉体とに分裂し、その肉体を他社が欲望する時、自我は主体となり、他社は媒体、そして肉体が対象となる。主体となった自我は、媒体となった他者の欲望を模倣することで対象である自分の肉体を愛することが可能になる。つまり、他者が自分を欲望してくれることによって、自分が自分を愛するという自己愛が実現される。
仮に、碇シンジの事例を図示するならば以下の図のようになるだろうか。彼は自分の存在を自らは肯定できず、他者(特に熱望したのは父親・碇ゲンドウ)から欲望(必要と)されることによって、「自分は必要とされる人間なんだ、居ていいんだ」と自我を保っていました。
次は「下弦の伍・累」にこのモデル当てはめてみましょう。
疑似家族の中で累は子ども(息子)の役割を担っている。父や母から守られる立場にあるはずだが、能力的には累が最も強いため「保護者―被保護者」の関係はここに成立していない。
そのことは累自身がよく分かっている。だから、父や母がその役割(親が子を守る)という役割を全う出来ていないことを指摘し糾弾する訳だ。この時点で、累自身は満たされないし、担えない大きさの役割を求められる他の鬼達も命の危険に晒されてしまう。歪な家族である。
それでも累は家族に拘る。なぜなら、それが自分の存在意義に繋がっているからだ。今一度、累の欲望の三角形をみてみよう。
疑似家族の歪さは、本来守る立場にある父母兄姉が累より弱いことにある。父母兄姉はむしろ累の傘下にいることで鬼殺隊から守られる立場にいるので、命の保証が得られる。父母兄姉が必要としているのは下弦の伍としての鬼の力であり、疑似家族の役割である息子(弟)という立場を欲しているのではないことは明らかだろう。しかし、累にとっては疑似家族が自分を求めてくれることが、自身の存在を肯定することに繋がるという構造の中に累はいる。
自分でも偽物の絆(恐怖の絆)であることを認めながらも、それにすがるしかなかった累の眼前に炭治郎と禰豆子が現れる。
本物の絆をそのまま奪い取ってしまいたいと思ったのだろう。しかし、同時に奪い取った後にはまた偽物の絆になってしまうということも分かっていたはずだが、炭治郎の言葉に恐怖の絆で繋ぐと回答するあたりに、まだ自分の実力への過信があったのかもしれない。
彼は勝ち続ければ勝ち続けるほどに、偽の絆にすがり続けることになる。今回、炭治郎が敗れて禰豆子が累のもとに行ったとしても、そこに彼の望むような絆は絶対に生まれなかっただろう。それには累自身が気づいている。自分で以下のように語っている。
偽りの家族を作っても虚しさが止まない
結局俺が一番強いから誰も俺を守れない庇えない
どうやってももう手に入らない絆を求めて
必死で手を伸ばしてみようが届きもしないのに
累が望むものは手に入ったのだろうか?回想シーンで彼は両親と再会することができて「一緒に行くよ 地獄でも」という言葉を聞く。これが累の欲しがっていた親の姿だったと思う。子の為に親がその身を地獄に落とす。鬼が生まれながらにして鬼でない以上、人だった頃の優しい気持ちというのは誰もが持ち合わせている。やはり、鬼舞辻無惨だけは絶対的な悪なのだろうか(まだ分からないが)
まどかマギカにおいてはキュゥべえに敵対する存在として、企みを阻止しようと奔走した「暁美ほむら」という魔法少女がいました。鬼舞辻無惨がキュゥべえであるとするなら、鬼滅の刃における暁美ほむらは誰でしょうか。
鬼殺隊と鬼の相互補完的な関係性について述べましたが、鬼が存在しなければ鬼殺隊も存在しません。その意味で2つは補完関係にあると言えます。
次回は、炎柱の煉獄杏寿郎をケースに鬼殺隊の側面から考察を進めていきたい。次回は予定通りにいくかな。。。
【引用元】
・吾峠呼世晴「鬼滅の刃 4」集英社 2016
・吾峠呼世晴「鬼滅の刃 5」集英社 2017
・足立加勇「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象」現代書館 2019
・ルネジラール(古田幸男訳)「欲望の現象学<新装版>」法政大学出版局2010