大きく3つあります。
どちらも坂本龍馬の人生にとって
大きなターニングポイントになりました。
勝海舟への招待状を渡した松平春嶽
脱藩浪士であった坂本龍馬が、
越前福井藩主であり、徳川政権の要職を
務める松平春嶽に直に会って交渉をする
というのは、当時では、ありえないことでした。
現に龍馬は、故郷である土佐藩主の山内容堂
とは一面識もありませんでした。
というか絶対に会えない。
松平春嶽と龍馬が話すようになったきっかけは
龍馬の通っていた道場の師範千葉貞吉が、
福井藩の剣術指南役を務めており、
その伝手で知り合ったという説が有力だそうです。
春嶽は龍馬の志や人間性に惹かれ、
勝海舟と福井藩の顧問をしていた横井小楠
に紹介状を書いています。
龍馬はその松平春嶽の紹介状をもとに
勝海舟に会い、弟子となります。
よくドラマなどでも見かけるシーンですよね。
勝がいなければ龍馬の活躍はそのとおりとは
なっていないはずですので、
春嶽の紹介状は日本にとっても大きな意義が
あったといえないでしょうか?
ある時、龍馬は春嶽のもとに資金援助の依頼を
するために福井に訪れます。
国を守る志の元、構想された神戸海軍塾の
設立のためです。
龍馬は神戸海軍塾が国防に必要なこと、
海軍の展望などを熱く語り、
なんと5000両という大金を借りることに
成功しました。
春嶽は
当時の福井藩に潤沢にあったわけではない
資金の中から、とんでもない金額を
龍馬に貸したんです。
春嶽は大名でしたが、部下への説明や説得も
必要だったと思います。
春嶽は幕末に四賢侯と並び称された
土佐藩主山内容堂へ、土佐藩を脱藩していた
龍馬を許すよう書状も出しています。
龍馬が生まれた土佐藩は上士と下士の
身分の差が大きく、下士に生まれた龍馬は
上士と対等に話したり、意見を言えるような
関係ではありませんでした。
上士が下士を斬り捨てても咎められない
という信じられない関係だったのです。
そんな龍馬にとって、春嶽という殿様は
どれほど心が広く、心強い存在だったかを
想像すると福井に住んでいる僕も
ちょっと誇らしく、嬉しくなってきます。
感謝