アルファベットは表音文字だと言っても、英語の場合はひとつの綴りにひとつの発音が対応しているわけではありません。これが例えばスペイン語であれば読み方はほぼ1通りに固まります。
それに対して漢字は表意文字だから意味は1通りに定まっても、読みは1通りには決まりません。
──などと書くと何やらまことしやかに見えますが、実は漢字の場合は読みも意味も複数あって、これが日本語を難しくしているのだと思います。
1つの漢字に何通りもの意味があり、その意味ごとに何通りもの読みがあったりします。さらに、送り仮名が同じであったりすると、その前後をよく読まないと、意味も読みも定まらないのです。
例えば「行った」と書いてあったら、それは「いった」とも「おこなった」とも読めます。前に「どこそこに」とあればそれは多分「いった」であり、「何々を」とあればそれは多分「おこなった」であるという風に単独では区別がつかない、非常に面倒な構造なのです。
終止形の「行く」「行う」であれば読みの違いが分かり、意味の違いも取れるのですが、「行って」や「行った」になると途端に分からなくなります。
そういう混同を避けるために「おこなう」の場合は「行なう」と送ることも認められており、私はその表記をよく使います。
「勝つ」と「勝る」も同じで、「勝った」になると「かった」のか「まさった」のか区別がつきません。しかし、「勝る」は現代語では使用頻度が低いですし、そもそも「勝つ」も「勝る」も似たような意味ですから、ま、そんなに困りはしません。
「通った」(とおった/かよった)、「塗れる」(ぬれる/まみれる)も同じような例です。
「とおった」か「かよった」かは「~を」なのか「~に」なのか、その「~」が通路なのか学校や職場なのかによって区別するしかありません。「塗((ぬ)れる」は「濡れる」とは違って「塗る」の可能動詞なので、こちらも使用頻度が低く、また「まみれる」を漢字で書く人も少ないだろうから、これもあまり混同することはないでしょう。
使用頻度が少ないとは言え、ややこしいのは「認める」です。「行った」などと違って送り仮名からは区別がつきません。「みとめる」に比べて「したためる」は圧倒的に使用頻度が低いからいいようなものですが、せっかく「したためる」なんて洒落た表現を見栄張って使ってるんだから、何としても読んでもらいたいところです。
ところがこれは知っている人しか読めません。目的語が「手紙」であれば、知っている人は間違いなく「したためる」と読みます。しかし、その知識がない人は前が手紙であろうと事実であろうと「みとめる」としか読めないのです。
「歪む」(ゆがむ/ひずむ)は「勝った」と同じような例で、どっちに読んでもともに似たような意味ですが、書いたほうはそれなりのこだわりを持って言葉を選んでいるはずです。書き手としては自分が意図した通りに読んでくれないのはとても残念なことです。
「空く」(あく/すく)も近い意味ではありますが微妙に違う状況を表しており、これもちゃんと読んでほしいのなら平仮名で書いておいたほうが安全かもしれません。
「強い」(つよい/こわい)、「忙しい」(いそがしい/せわしい)、「見える」(みえる/まみえる)なども同様で、私は「こわい」「せわしい」「まみえる」と読ませたい時は仮名書きしています。
そんなに難しい表現でも洒落た言い回しでもないのですが、これまたどちらだか分からないものもたくさんあります。「描く」(かく/えがく)、「入る」(いる/はいる)なども微妙にニュアンスが違うので、書きながらちゃんと読んでくれるだろうかと気になることがよくあります。
一方で「はいる」には「這入る」という表記もありますが、これはちょっと気持ち悪い表記ですものね。誰が這って入るもんですか。
あと、これは読み違いなのですが「見初める」と書いたのを「みはじめる」と読まれたりすると本当にがっくりしてしまいますね。「みはじめる」であれば「見始める」と書きますよ。
「見初める」は「みそめる」と読んでください。意味をご存知なければ辞書で引いてみてください。「見」と「初」の組合せからどうしてこんなに深く、繊細な意味が出てくるのか、本当に感嘆すべき美しい日本語だと思います。
さて、こうやって並べてみると、日本語の構造的なややこしさが身にしみてくるような気がします。
そんなに気にしなくても大体通じれば良いじゃないか、と言う人もいるでしょう。ま、そうかもしれませんね。今日はあまりに細々としたことばかり書いてすみませんでした。
ちなみに、「こんにちは」じゃなくて「きょうは」、「ほそぼそ」じゃなくて「こまごま」ですので。念のため。