遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。
(出典: 白川静「神の顕現」, 「遊字論」, 『文字逍遥』, 平凡社ライブラリー, 10ページ.)
この上の動画は、奥三河(愛知県北設楽郡(きたしたらぐん)東栄町(とうえいちょう))の古戸(ふっと)地区の花祭りの行事のなかで舞われた、「山見鬼」という舞いの映像です(2020年1月2日23時45分ごろ)。この上の動画は、この「山見鬼」の舞いの映像のなかでも、とくに盛り上がっているところを60秒間だけ抜き出したものです。
この下の動画は、この上の映像の前後のところもふくんだ、すこし長めの 5:37 ほどの映像です。
この「山見鬼」の舞いをはじめとする、奥三河(東栄町(とうえいちょう))の古戸(ふっと)地区の花祭りの神事や舞いを見ていると、思い起こされる言葉があります。
その言葉というのは、白川静さんが書かれた『文字逍遥』という本のなかの「遊字論」という文章のなかの、「神の顕現」という節のところの文章です。この下の引用文が、その文章です。
遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかもしれない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証であり、またその限られた場における祭祀者の特権である。
遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。神隠るというように、神は、常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。左は左手に工の形をした呪具をもち、右は右手に祝詞を収める器の形であるさい〔引用者注1〕をもつ。左右とは神に対する行為であり、左右颯々の舞とは、神のありどを求め、神を楽しませる舞楽である。左右の字をたてに重ねると、尋となる。神を尋ね求める行為として、舞楽が必要であった。それで神事が、舞楽の起原をなしている。祭式の諸形式は、この神を尋ね求める舞楽に発しているのである。
(出典: 白川静「神の顕現」, 「遊字論」, 『文字逍遥』, 平凡社ライブラリー, 10~11ページ.)
(※引用者注1: 原文では、この「さい」という文字のところには、篆文の「右」という文字のなかの一部分が書かれています。)
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「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」
(参考記事)
花祭り(奥三河・東栄町)についてのメモ
https://wisdommingle.com/?p=22385#jump_200102a