電子書籍『ゲームやアニメ、漫画でこれからの生き方を学ぶ』のあとがきを無料公開します。
前半部分までとなりますが、この部分は幅広く皆さんに知って頂きたいものです。
それは私が書いたことではなく、哲学者アリストテレスの言葉だからです。
(正直な話、後半の私が書いたところは、そこまで大事なものでもないので削っても良いかなと)
『あとがきにかえて』
最後に「あとがき」にするには長いですが、章にするほどでもない話を少し。
前章に関連する内容の話ですが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは当時の奴隷制度を肯定していました。
この時代の奴隷とは前章の「非自由民」であり、縄や鎖などで肉体的に束縛されているわけではないものの、労働というものに束縛されて不自由な状態にある民を指します。
そしてこのアリストテレスが理想としていたのが、奴隷制度のある君主制でした。
君主制はさておき、何故、奴隷制度が必要なのでしょうか?
その理由は「自由民が思索や探求により集中するために、身の回りの世話などの必要な労働を奴隷(非自由民)にやらせるべきだ」というものです。
ではここで、この時代の「身の回りの世話などの必要な労働」を現代に置き換えると、どうなりますでしょうか?
「生活に必要な物やサービスを供給するための労働」になるかと思います。
さらにここで、この「奴隷(非自由民)」を「AIとロボット」に置き換えると、どうでしょうか?
まさしく、いずれ到来するであろう未来に他ならないのではないでしょうか。
それでは、この「いずれ到来するであろう未来」について。
もし、今の日本人が今の状態のまま、突然このような未来に置かれてしまったら、どうでしょうか?
どうしたら良いかわからなくて、途方にくれる人がかなり多いのではないかと私は危惧しています。
さらにもし、アリストテレスがその光景を見たならば、おそらく次のように言うのではないでしょうか。
「これはいかん、間違って奴隷が紛れ込んでしまったようだ」
と、こう書くとアリストテレスって酷いじゃんの一言で終わりですが……ま、実際に酷い話でしょうけども……この時のギリシャでは奴隷制度が当たり前でしたから。
少しだけ擁護しますと、アリストテレスは次のようなことも言っています。
「奴隷が(本来の屈強な肉体ではなく)自由人の肉体を持ち、自由人が奴隷の魂を持つということもある」
「(理性も含めて全部)他人のものである人間、あるいは理性を持たないが他人の理性を感知する程度は理性に関与する(その程度のわずかな理性なら持っている)人間こそ、自然本性に即した(=生まれつきの)奴隷である」
つまり「元々自由民の家に生まれた人間であっても、理性を持たない(か、わずかしか持たない)人間は奴隷である」と言っているのです。
すなわち「自由人とは、他人のものではない(すべて自らのものである)十分な理性を持っている人間」のことを指しており、自由民の家に生まれたかどうかという出自の問題ではなく、その本人の問題である、ということなのです。
ただし現在の我々日本人は、概ね皆が働いている状態であり、職務上「他人の理性を感知し、その理性に沿った行動」が求められます。
最もわかりやすい例でいえば、接客業で「お客さんの希望を感じ取って、そのお客さんがより快適に感じてもらえる行動をする」ということが求められるわけです。
確かに仕事をする上では、このようなことは避けられません。
しかし逆に言えば、仕事を離れたらそのように「他人の理性を感知し、その理性に沿った行動」をする必要はありません。
もちろん相手が家族など自らの愛する人に対して、自らの理性で良かれと思って行う場合もあるでしょうが。
そうでなければ、そのように自らの理性を自ら尊重することなく、他人の理性に委たり阿たりする意味が、一体どこにあるのでしょうか。
その他人の理性の中には、特定の個人ではなく不特定多数で形成された「常識」も含まれています。
仕事以外での「常識」や、それ以外の多種多様な「束縛からの解放」。
そしてそうすることで、今よりもさらに幸せな状態になるということ。
その束縛の中には、自分の考えや感想が絶対に正しい、というものも含まれています。
このことを学ぶためには何か特別なものが必要というわけでもなく、ゲームや漫画、アニメのような身近にある娯楽作品で十分なのです。
*****ここまで*****
「他人の理性を感知し、その理性に沿った行動」は、仕事以外でも、例えば家族や友人に対する思い遣りとか、必要なところは他にもありますが。
そのような本当に必要なところ以外は不要です。
しかし私は、その不要なことに時間や心や頭を割いている人が、かなり多いのではないかと思います。
その時間を全部、アリストテレスの言葉を借りると「自由人の魂となるために(自由民が思索や探求に)使う時間」とした方が良いでしょう。
主語は自由民となっていますが、アリストテレス自身も思索や探求をしている時間は幸せだったことでしょう。
つまり、この時間を私の言い方で言えば「自らが本当に幸せになるための時間」とした方が良いのではないでしょうか。
何故なら、そのいずれ到来するはずの遠い未来が、テクノロジーの進化によって、驚くほど近くなる可能性が否定できないからです。
そんなことはあるわけが……って、もう、ありましたよね。
それがインターネットの発明と普及(&インフラ化)です。
はっきり言って、これらが起こらなければ(これらが起こるのがもっと先で、現在はまだ起こっていなければ)、日本は未だにGDP世界第二位でいられたことでしょう。
二の舞は避けるべきです。
何時そのような時代が来ても、対応できる人材になっておきしょう。
個人レベルでも、できることはあります。
それが「自らが本当に幸せになるための時間」を大事にすることです。
これは人それぞれでありかつ幅広く、趣味などのように直接「自らが幸せになる時間」もあれば、あるいは「自らが本当に幸せになるためにはどうしたら良いかを考える時間」もあります。
というわけで、この文章をここまでお読み頂いた、皆さんがより幸せになりますように。
ありがとうございました。
(なお、アリストテレスにご興味を持たれた方は、KTAG様の以下のまとめ記事がおすすめです。
上記のまとめ記事より、ご興味のある各ページをご参照ください)