
ちょっと前に文春オンライン様の以下の記事を拝読しました。
以下、上記リンク先より引用致します。
芸能人生70年、堺正章さんが見た「良いお金の使い方・悪い使い方」とは?
「いくらで買った?」
クラシックカーの話となると、すぐそういうところに落とし所を持っていく人がいる。そのたびに僕はげんなりさせられる。値段の話に即座にスライドさせるなんて、行儀が悪いにもほどがある。こちらはせっかく素敵な「文化」の話をしているのに、それでは夢がだいなしになってしまうじゃないか。
自慢じゃないが、僕は仕事を決めるとき、ギャラを聞いてからその金額で選ぶということは、今までにしたことがない。その仕事を引き受けることに意義を見出せるなら、絶対に断らない。もっとも、もしかしたら僕の知らないところで、ギャラの額は一定以上に保たれているのかもしれない。事務所は金額の折衝をするのが仕事だからだ。けれど、僕自身の気持ちが金額の大小で揺らぐことがないのはたしかだ。常識の範囲内の金額でさえあれば、決め手となるのはあくまで、やりがいがあるかどうかなのだ。
記事を拝読して思ったのは、お金の機能の中でも「価値の尺度機能」について。
お金の機能は三つ「交換(決済)」「価値の保存」「価値の尺度」ですが、お金持ちになりたいと思うのならば、最後の「価値の尺度機能」に着目するのがこれまでの王道でした。
ただし食料品など、期限のある商品を扱う場合は保存の機能も大事です。
それとあと今は、現金以外の決済手段がたくさんあり、キャンペーン等も充実していますから、交換(決済)機能も大事です。
……って、全部やないかい!
それはさておき。
以前もどこかで書いた話で恐縮ですが、価値の尺度機能を別の言い方をすると「価値の標準化をしている」とも言えます。
全然違う物を比べる時、たとえば服と果物を比べたい時には「この服は服の中ではこのぐらいの値段で、この果物は……略……」とし、最終的にその値段で比べます。
堺さんは「仕事や趣味で求めるものは、お金ではなくこだわり」と仰っていますが、これを言い換えると「標準化する目的のものではなく、こだわり」という意味であり、そのこだわりとは「その人にとって標準以上のもの」なんですね。
さらに言えば、標準以下の貧しい生活を強いられている人や、資産も収入もあるけど家族の負債を肩代わりするなどの事情がある人が、お金を目的として求めるのは当然のことです。
「そうではないのに、お金を求め続けるのは身を亡ぼす元である」と、堺さんは仰りたかったのではないでしょうか。
さらに言えば堺さんのような、クラシックカーという高価な趣味でなくとも……。
……黄金色つながりで、カレーライスで(←ちょっと強引)。
たとえば、行きつけのお店のカレーが世界一美味しいと思っている人がそのカレーを食べた時は、とてつもなく幸せな気持ちになるでしょうが、これも「標準化する目的のものではなく、こだわり」の例に挙げられると思います。
街のカレー屋さんのカレーも文化ですよね。