投げ銭をこすもす様、metaニャーちゃん様、Taka様、NFT太郎様、KTAG様に頂いておりました。
皆様、ありがとうございました(何度も頂き回数の合わない方もおられますが、また書きますのでお許しください)。
それでは本題に入ります。
「親ガチャ」という言葉が話題になってかなり時間が経っていますが、一時的なものではなく定着しそうな勢いですね。
ただ、あまり良いことではありません。
というのも、その理由は「定着するほどの深刻な問題」だからです。
最近dai様の以下の記事を拝読致しました。
最近は「国ガチャ」というのもあるとのこと、勉強になりました(dai様ありがとうございます)。
この記事を拝読し、さらに考えたのですけれども。
要するに「ガチャ」自体は「親ガチャ」だけではなく、今回の「国ガチャ」も含めていろいろあるではないかと。
時間や空間、あるいはその他のことでさらに大きくとらえると「時代ガチャ」もあれば「国ガチャ」「地域ガチャ」あるいは「職業ガチャ」などもありますね。
「国ガチャ」だけでなく「時代ガチャ」だと、同じ日本であっても例えば戦国時代とか江戸時代その他の大飢饉のあった時とかに生まれると悲惨です。
それはさておき、ここで「親ガチャ」に話を戻します。
「子供は親を選べない、変な親から生まれた子は気の毒だ」
これが「親ガチャ」に失敗した子供の話です。
普通は「その子供が気の毒だ」という結論で終わりがちです。
しかしこれ、その子供だけの話で終わるでしょうか?
その子供が素晴らしい才能を持っているのに、親に問題があるという原因でその才能を開花させることができなかったら、誰が損をするでしょうか?
その子供も損をしますが、その子が本来の力を発揮すれば得られるはずだった利益を得られない、すべての人にとって損ではないでしょうか?
というわけで、最終的にはその国かつその国の国民が、その損を被ることになるのです。
上記リンク先のdai様の記事では、以下の記載があります。
給付とは、一時しのぎにすぎません。
たとえば、発展途上国を応援しようとする場合、「援助ではなく支援が必要だ」と言われますね。
魚をあげるのではなく、長期的な視点で、魚の釣り方を教えてあげるべし、ということなのですが~以下略~
仰る通りです。
「支援」の意味は力を貸して助けることで、援助よりも「その人が主体でしていることの一部を助ける」という意味が強いんですね。
十万円無条件に配るのはやりすぎの「援助」だと仰っておられますし私も同意ですが、それと同時に「国ガチャを思えば贅沢ではないか」と言って何もしない、というのもどうかと思います。
必要なのは、適切な「支援」ではないでしょうか。
(なお、私は上記dai様の記事のコメント欄に以下のように書いていました。
「まず現金でかつただ配るだけ、っていうのに問題があると私も思います。
ただでさえ「日本は現金比率が高くて遅れている」と言われているのに、しかもただ配るだけとは。
例えば、政府通貨を仮想通貨で発行しそれを実験として、その「実験に参加して頂ける方は十万円分差し上げます。応募者多数の場合は若い人優先で。ただし実験だから不具合もあるよ?」と言って配る。
多分若い人の方がこういうものには抵抗ないし、年齢が高くとも困っている人は勉強して使おうとするでしょうし」
ここからいろいろ思うことがあって、今回の記事に繋がったわけです。
dai様、重ね重ねありがとうございました)