〈水場〉に聖娼之蒋七は向かった。弖飛に捧げようと酒と獺肉を担いで、着いたのは初更の頃だった。猟師魯魯禹の隠れていたという薮はすぐ分かった。猟師蚊釐の血溜まりが〈火星ノ運河〉となっていた。聖娼之蒋七はそこに腰を下ろした。朝まで待つことにした。夢を見た。目が覚めて、思い出す。〈十ノ角ヲ生ヤシ七ツノ冠ヲ戴ク七ツノ頭ノ焔ノ如ク赤ク輝ク大キナ竜。ソノ竜ハ全体、銚豹ニ似テ足ハ弦熊、口ハ砥獅。ヨク見レバ、冠ニハ神ヲ冒瀆スル名前ガ書カレテイル。〈侮智君〉〈凌礼王〉〈忘義子〉〈破忠郎〉〈堕孝僕〉〈滅信虫〉〈擲悌生〉。ナントイウ嫌ナ生キ物〉それは聖娼之蒋七が描く弖飛の空想上の姿だった。
弖飛が来た。苒馬に跨っていた。〈ザンバラノ髪〉、〈獣ノヨウダガ、人ノ形ニモ似テイル〉。間違いない。だが、怖くはなかった。獺肉を下ろした。たちまち弖飛が駆け寄り、貪り食った。酒を置いた。楡維八年物の黒柿酒である。それも飲んだ。聖娼之蒋七は膝を立て、三角座りをしていた。頬杖を突いて弖飛を眺めていた。一向に〈怖イ〉と思えなかった。〈可愛イ〉。飲み食い飽きて無防備に寝転がった弖飛を、聖娼之蒋七は撫でてみた。〈天ノ川ヲ滑走スル夜鷹〉のように、弖飛の髪を梳く五指は颯々たる風の筋にひやりとした。弖飛の傍に身を横たえて寝た。〈月ノ雫〉を頬に感じ、二人は同時に首を回して向き合った。そのまま、〈蟹ガ左右ニ蟹歩キスル〉くらい当たり前に、二人は契った。〈聖娼ハ弖飛ニ奥処ヲ開〉いた。
弖飛、「おまえは誰だ」聖娼之蒋七、「之蒋七」「俺は誰だろう」「畜神轂南須の権化ではないのですか」「違うと思う。待て、名前を思い出した。弖飛」「弖飛」「そうだ」「弖飛は人のようだね」「分からない」「妾に似ていると思わない」「思う」「じゃあ、人だ」「うん」「もう人を殺さないでしょう」「之蒋七のような生き物か」「そう」「俺は殺していたのか」「うん」「殺さない」「よかった。じゃあ、妾は帰れる。なるべく獣も〈殺サナイ〉で。こうやって妾が肉を持ってくるから」「どこかに行くのか」「そうだよ。妾の家はここじゃない」「ここにいてくれ」「どうして」「それは、何故だろう」「さあ」「之蒋七、おまえの顔を〈イツモ見テイタイ〉」之蒋七は自分の心を言い当てられたような気がした。〈ココニイ〉るとは言わなかった。かと言って、拒絶も出来なかった。だから、弖飛を受け入れたことになった。
モット綺麗ニ生マレテイタラ/ドレダケアッタ
許セルモノ/愛セルモノ
優シイ歌デ/穢レナイ魂デ
張リ裂ケソウニ高鳴ル胸ヲ破ッテ咲イタ/サクラ
食イ荒ラス体/形ヲ変エテイク
羽バタイテイコウトイウノカ
虚ロナ骨ニ根ヲ絡メ/囚ワレテイルノニ/アルベキ場所ハココナノニ
オマエハマタ忘レタ振リヲスル
聖娼之蒋七は歌った。感応はここに響いていた。天の女神が〈モット綺麗ニ生マレテイタラ〉と口ずさんだその真意は不明でも、一人の少女はこの歌と一体化して、〈モット綺麗ニ生マレテイタラ〉の観念に囚われていた。〈モット綺麗ニ生マレテイタラ〉どうだったか。聖娼としてではない之蒋七の生涯はどんなものだったか。私にも答えられない。左目を失わないだけで、多少はいい〈生涯〉だったかもしれない。歌い嘆く権利くらいはあるだろう。弖飛は獣たちに近付かなくなった。獣も弖飛を恐れている。人と獣の境界を跨いで立つ弖飛が、〈境界〉を遠く離れてなぜか人の側に移り住む。弖飛は獣を追う。殺して肉を取るために。昨日まで股倉を舐め合った螺馬が弖飛から逃げる。切なかった。弖飛から〈逃ゲ〉切ることなど出来ない。
弖飛、「食え」聖娼之蒋七、「このまま」「そうだよ」「焼いたりしないの。腹に虫が湧くよ」「へえ。じゃあ、そうしよう」「御馳走だね」「嬉しいのか」「まあね」「こいつは、多分、一緒に駆けずり回ってたと思うよ。あのへん。段々になった山の腹」「あれは蘚茶畑。茶商屡囊の持ち物だ」「人か」「人だよ」「おまえに聞きたいことがあった」「なに」「俺と之蒋七は似ている」「うん」「でも、おまえには目が足りない」「そうだね」「そこだけが違う。どちらが正しい」「〈正シイ〉のかは分からないけど、目は二つある人のほうが多いね」「やっぱりそうか」「うん」「出見烏とか、羣亀とか、翻車魚とか、どんな変な奴でも大抵は〈二ツ〉あるもんな」「そうなの。知らない」「じゃあ、おまえも〈二ツ〉あったほうがいいよ。そのほうが、〈モット綺麗〉だよ」
聖娼之蒋七の手足は〈蘖ト燕ニ滋養ヲ吸ワレタ麝柳ノ髄〉のように軽く細く頼りなくなっていく。弖飛がその日の肉とともに、眼球を六つ持って帰ってきた。聖娼之蒋七、「これは」弖飛、「おまえに合う目はないか」「人の目玉を取ってきたの」「これは茶色過ぎる。之蒋七の目は真っ黒だ。これは青い」どれも聖娼之蒋七には〈合〉わなかった。弖飛を止めることもできた。〈人ノ目玉ハ勝手ニ取リ付ケタリ出来ナイ〉と教えてやりさえすればよかった。聖娼之蒋七はそれをしなかった。すべての人が〈左目ヲ失〉った世界のことを思った。聖娼之蒋七が一番〈綺麗〉になれるかも知れなかった。弖飛は毎日のように〈眼球ヲ〉〈持ッテ帰ッテキタ〉。〈合ウ〉か〈《合》ワ〉ないかは、専ら瞳の色で判定した。「琥珀色だ。いい色だけど。緑色。これは赤い。黒い。いいな。いや、駄目だ。之蒋七と比べるとやっぱり薄い。ああ」弖飛が摘んだ一つを、之蒋七に突き付けた。「〈綺麗〉」「うん。之蒋七の目玉に似ている。でも違うな」「そうかな」「違う。そうだ。黒いけど、暗い。こんな目玉で俺を見るな」弖飛はその眼球を踏み潰した。なにがそんなに気に入らないのか。虹彩が膨張して、眼球の白い部分がなくなって、弖飛まで飲まれていく。暗闇だ。〈懐疑論者ト芋山賊ノドンパチ〉めいて火花が散る。極小の光が、真の闇でない限り見落としてしまいそうな程の微かな〈光〉が瞬く。まるで夜空だった。無数の星屑に睨まれた。〈見透カサレタ〉と感じた。〈コンナ目玉ナラ欲シイ〉と思った。