この記事では、ビスマルクについて書いた記事をまとめていきます。
幼少期からドイツ統一+αまで書きました。
外交の天才が如何にドイツをまとめ上げていったのか、なぜフランスと仲が悪くなったのか…。
それぞれポイントをピックアップして書いたつもりです。
これを読めば、ドイツが少し身近に感じられるようになるかも知れません。
お時間があれば、読んでいただけると嬉しいです。
ビスマルクのスパルタ幼少期から、喧嘩とギャンブルに明け暮れた青年期を経て、妻ヨハナと結婚。
喧嘩屋と呼ばれたビスマルクはここから政界に進出していきます。
大物政治家に度胸を見込まれ、保守派の州議会議員に。
しかし政敵である自由主義派が力を強め、各地で革命活動が頻発。
自由主義派がドイツ統一を進めて行こうとしますが難航。
革命が収まった後、ビスマルクに白羽の矢が立ちます。
プロイセン大使としてドイツ連邦議会に赴いたビスマルクは、議長国であるオーストリアに喧嘩を売ります。
オーストリアを徹底批判し、孤立させることに成功します。
これによって鉄血外交を振るうビスマルクの名が、各国に知れ渡るようになりました。
軍備拡張を自由主義に邪魔されながらも、憲法の穴をついて軍拡予算案を通すビスマルク。
工業化を推し進め鉄道を張り巡らせ、軍の装備も十分に整ったところで、オーストリアをドイツ連邦から除外することを宣言。
これに反発したオーストリアがプロイセンに宣戦布告。
普墺戦争が始まります。
参謀総長モルトケによる、鉄道と電信と武器の強化により大国オーストリアを圧倒。
僅か7週間でプロイセンが勝利します。
これによってオーストリアは、プロイセンのドイツ統一に一切口出しができなくなりました。
進むドイツ統一に待ったをかけたのが、隣国フランスの存在でした。
そこでビスマルクは、スペインの王位継承問題とメディアを利用し、フランスからプロイセンに宣戦布告させるよう仕向けます。
これによって普仏戦争が勃発することになります。
ほぼ全ての戦場でプロイセン側の勝利。
銃ではフランス軍が勝っていたものの、工業化を推し進めていたプロイセン軍は、あらゆる面でフランスを凌駕していました。
遂に、ナポレオン三世を捕虜にするという大戦果を上げたビスマルク。
フランスのヴェルサイユ宮殿にてドイツ統一を宣言、ドイツ帝国が成立しました。