保育園から一緒の同級生とご飯にいったときの話だ。
「どうやったらギバーになれるの?」
同級生の彼がこんな質問を投げかけてきた。
ほう。
「ギブした方がいいのはわかってるんだけど、見返りの保証がない状態ではギブしようと思えない」
ふむふむ、なるほど。
気持ちはわからなくはない。
なぜギバーになりたいか、詳しくは聞いていないが、おそらく彼には前提情報があったのだろう。
〝地位の高い人はみんなギバー〟という情報と、〝ギブをすると返ってくる〟という情報
ボクもそのくらいの情報はどこかしらから得たことがある。
つまり彼は、『ギブをすると返ってくる』という情報はもっているが、それを体感したことがないから一歩を踏み出せないできる。だからギバーになれない。
というわけだ。
そんな彼にボクが言えることはひとつだった。
「まずやってみたら?」
やったことがない人にどうすればいいと聞かれたら、ボクはこの答えしか持っていない。何かになりたかったらやるしかない。
そう彼に言いつつも、彼の表情は曇ったまま。
彼は、確証を欲しがっていた。ギブすれば返ってくるという確証を。
そこでボクは、自分の体験を振り返りながら、本気で考えてしゃべってみた。
〝ギブをすると返ってくるとは、どういうことなのか〟
※
豪語するつもりもないが、彼が相談してくるくらいだ。
ボクはギバーだ。
多くの人と比べたら、ボクは人に与えている方だと思う。
信頼している人に限ってだが、持っている情報は惜しみなく与えるし、お金に困っていれば支援する。場合によっては、スキルも無償で提供する。
そんなボクが、「ギブしたら本当に返ってくるのか」という問いに答えると、
結論、〝ギブしても返ってこない〟
与えたもののほどんどは、与えた人からは返ってこない。
お金をあげた人からお金が返ってくるとか
スキルをあげた人からスキルで返ってくるとか
返してくれる人もいるがごくわずかだ。
みんながみんなそうではない。
「与えたから返してくれる」というのは幻想だ。
与える側・与えられる側の関係だけでみると、与える側は必然的に損をする。
じゃあ、与えたギブはどこから返ってくるのだろう。
ボクの経験上、ギブは、与えた人・与えたものとはあまり関係のない方向から返ってる。もはや返ってくるという表現すら微妙だ。
例えば、ボクが与えて返ってきた例をふたつ挙げてみる。
ひとつ目は、とあるアーティストに支援という形でギブをしたとき。
ボクはお気に入りのアーティストに毎月支援している。
そのアーティストとお茶したとき、彼はボクの活動のためを想っていろいろアドバイスしてくれた。そのアドバイスがキッカケで、「幸せの見つけ方」というTwitterでよくバズるコンテンツをつくることができた。
お金を支援したら、バズるコンテンツが誕生した
彼に支援していなかったら、間違いなくお茶する機会はなかったろうし、もしあったとしても、彼がここまで親身になってボクにアドバイスをくれることはなかっただろう。
ふたつ目は、オンラインサロンで情報を惜しみなくギブしたときだ。
ボクは以前、クリエイターが集まるオンラインサロンに参加していた。音楽家やクレイアニメ作家が集まるサロン。ボクはそのサロン内で、割と積極的に情報発信していた。そんな日々を送っていたある日、ボク主体で、ミュージックビデオをつくってもらえることになった。ボクが詩を書いて、音楽家の方が楽曲を作ってくれた。ボクが歌って、クレイアニメ作家の方が、ボクを主役にしてミュージックビデオを作ってくれた。
情報発信してたら自分主体の楽曲をつくってもらえた。
これに関しては、どうしてそうなったのか本当によくわからない。
ちなみにYouTubeにそのMVが上がっている。
与えた人からギブが返ってくるというより、〝思わぬ方向から新たなギブが飛んでくる〟という印象だ。
返ってきているのではない。
彼らもまた、ギブをしているのだ。
ここまで話してピンときた。
おそらく、コミュニティが変わっている。
ボク自身、与え続けてきたことが幸いしているのかはわからない。
が、おそらくそうだろう。
思い返せばボクの周りの人はギバーだらけだった。
自分が変わると、付き合う人も変わる。
自分の意識レベルが上がっていくと、今まで関わりあった人とは意識レベルが離れていき、なかなか合わなくなる。代わりに今度は自分と同じくらいの意識レベルの人とよく関わるようになる。付き合う人は自分の意識レベルによってどんどん変わる。
このことを体験している人は多いだろう。
ギバーに関しても、これが起きている。
ボクが与えるから、必然的に与える人と関わるようになる。
いつのまにか、与える人のコミュニティに入っている。
類が友を呼んでいる。
そういうことだと思った。
だから、「ギブしたら返ってくる」が成立するのだ。
厳密に言うと返ってきているわけではない。
ギブが飛び交っているのだ。
ボクは今、ギブが飛び交うコミュニティの中にいる。
みんな誰かにギブをしていて、それがたまに自分のところに飛んでくる。
そういうことだったのだ。
彼にそのことを伝えると、納得はしてもらえた様子。
だが、表情は曇ったままだ。
そうだった。
質問は、「どうやったらギバーになれるの?」だった。
彼の気持ち、ギブに踏み出せない気持ちはよくわかる。
ボクも以前は、圧倒的にテイカーだった。
ボクはいつからギブできるようになったのだろか。
ちょっと思い出してみた。
✳︎
与えることは損だと思っていた。
与えても見返りがない
自分が損をするだけ
わざわざボクが与える必要なんてない
ボクの価値観が変わったのは、漫画家として、Twitterでの発信活動を始めたばかりのころ
27歳のときだ。
「与えられる人になりたい」
そう思ったのがキッカケだった。
漫画家として生計を立てていく上で、収入の窓口を複数つくりたい。
そう考えたときに、
収入源のひとつとして考えたのが
「ファンの方からの支援」だった
支援してもらうためにはどうしたらよいのだろう。
Twitterで流れてきた情報に、こんなのがあった。
「応援されたかったら、まずは自分が誰かを応援すること」
このツイートを読んだとき、ボクは安直に考えた。
「支援してもらいたかったら、まずは自分が支援すればよいのではないか?」
思い立ったらまずはやってみる。ボクはそう言う人間だ。
とりあえず誰かに支援してみることにした。
完全に見返りを求めて始めた支援。
動機は不純きわまりない。
しかしこの行動が、ボクの価値観を真逆に変えた。
「polca」というサービスがある。
クラウドファンディングの小額支援版
とでも言おうか。
最少で300円から、誰かの企画に支援ができる。
このpolcaで、知り合いが企画を立てているの見かけたので、とりあえず500円ばかり支援した。
もちろん、見返りは大いに期待した。当然である。
支援したから、彼からなにか返ってくるかもしれない。
ボクのために、何かをしてくれるかもしれない。
そう思って数週間過ごした。
結果は、なにも返ってこなかった。
その次も、別の知り合いに少額支援。
またなにも返ってこなかった。
「もし支援してなにも返ってこなかったら、ただ損するだけだ」
始める前はそう覚悟していた。
いざ与えてみると、あることに気づいた。
与えた方には幸せが返ってくる。
polcaで誰かに支援すると、幸せな気持ちになれるのだ。
自分が与えたものが、確実にその人の力になっている。
そう実感したとき、幸せはやってくる。
漫画を毎日投稿している人がいた。
ボクはその人を本当に尊敬していた。
そんな彼がpolcaで、「絵を描くためにiPadが欲しい」という企画を立てた。
なんと彼はそれまでiPhoneで漫画を描いて毎日投稿していたのだ。
ボクは惜しみなく支援した。
500円。
結局彼は、一度の支援ではiPadを買えるだけの金額は集められなかったのだが、その後数回企画を立ち上げ、無事iPadを購入。今日も漫画を更新している。
彼はきっと、漫画を描くのが随分ラクになったはずだし、同時に漫画を描くのがもっと楽しくなったはずだ。
自分の与えたお金が、彼のその先の人生に貢献している
そう考えたら、幸せでしかたなかった。
与えることで、幸せを実感できる。
自分が与えたわずかなものが、誰かの夢や目標の一部になって、その後の人生を変えていく。幸せへの貢献。
そう考えると、無性に幸せな気分になれないだろうか。
それともこの感覚はボクだけのものだろうか。
いずれにしても、この気持ちを味わえたことが大きかった。
ギバーかいちの誕生である。
ボクはその後も、与え続けた。
もう、見返りなど求めていなかった。
自分が幸せになれるから支援していた。
いつしか、与えることが当たり前になり、今に至っている。
✳︎
ギブは別に、見返りを求めてするものではない。
与えたい人に与えたいときに与える。それだけだ。
それを続けるだけで、周りの人間関係は変わっていく。
自らギブすることで、ギバーが寄ってくる。
寄ってきたギバーは定期的に誰かにギブをしていて、それがたまに自分のところに飛んでくる。
これが「ギブしたら返ってくる」のカラクリ。
ギブすること自体も損ではなく、感情は豊かになる。
誰かのために役立っている幸せを実感できる。
それだけでもギブする価値は大いにある。
ボクがいくら語っても、こればかりは、自分で体験してみないとわからない。
あとは本当に彼自身がやってみるしかない。
自分で体験して、継続して、実感するしかない。
「どうやったらギバーになれるの?」
誰かに無償でギブできたら、その瞬間からギバーだ。
あとは、与えた自分が何を感じるかだ。
見返りがないと嘆いてギバーを辞めるもよし
ボクが幸せを感じたように何かを感じて続けるもよし
とにかくやってみないと始まらない。
彼の表情を見てみると、少し曇りが晴れた様子。
ここまで話してようやく届いたのだろうか。
ボクが始めに言い放った、「まずやってみたら?」が
ボクは、与えられることは与えたつもりだ。
ここから先は彼次第。
与えて人生が変わるもよし、与えず人生変わらずもよし。
またしばらくして会えたときが楽しみである。
確かなことがひとつあった。
彼の口から聴いた言葉だ。
「まずやってみよう」
彼はそう言っていた。