Esportsの会というDiscordチャンネルがある.このチャンネルはプレイヤーや研究者,大会運営関係者などが,身分を問わず参加することのできる総合的なesportsのためのチャンネルだ.
2018年12月29日から「esportsはスポーツか?」というテーマで議論が行われている.それを受けての私的見解をここに記す.
この問に対して,私はYesの立場をとる.esportsはスポーツだ.
私はesportsをマインドスポーツの派生であると捉えている.マインドスポーツとは,チェスや将棋を始めとした頭脳を使ったゲームをスポーツとしたもので,頭脳スポーツとも呼ばれる.マインドスポーツの中には先に上げたチェス,将棋以外にも麻雀やポーカー,百人一首,その他カードゲームやボードゲームも含まれる.これらのゲームを電子化し,複雑化や競技性を高めたモノがesportsと言える.
そもそもスポーツというのは,貴族による競技性を持った娯楽である.そのため過去には狩猟やディベート,競馬や合奏もスポーツに含まれている.19世紀頃のスポーツ大衆化や「健全なる魂は健全なる肉体に宿る」という思想も相まって身体的競技がスポーツとして広まった.スポーツ専門組織によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする近代スポーツの誕生である.それまでの貴族的な,チェスのような道具を使った競技娯楽よりも,陸上競技のように体一つでできる競技娯楽のほうが大衆に広まりやすいのは当然だ.日本においても身体的健康のための運動としてのスポーツが推奨されており,スポーツ庁の定義するスポーツも「身体を動かすという人間の本源的な欲求に応え、精神的充足をもたらすもの」であり,身体の動きを伴うものをスポーツとして認識している.
ここでスポーツの語源を見てみる.sports-スポーツの語源は,ラテン語のdeportare-デポルターレにさかのぼるとされる.deportare-デポルターレは「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という語感の語である。これが古フランス語のdesporter[(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ]となり、英語のsports-スポーツになったと考えられている。このことから考えるに,スポーツとは身体性を問わず,他者と競い合うことで楽しめる物事と捉えることができる.
スポーツ大衆化の歴史とスポーツの語源から見ると,身体の運動を伴う現在主流のスポーツを近代スポーツからの流れを組んだ"現代スポーツ"と定義し,近代スポーツ以前の,身体の運動を問わず,競技性を持ち合わせたスポーツを"古典スポーツ"と定義する.
この定義と照らし合わせて分類すると,野球やサッカーといったスポーツは現代スポーツに含まれる.自動車レースなどのモータースポーツや競馬,競輪のほか囲碁将棋・チェスなどのマインドスポーツは古典スポーツに分類できる.
そして本題たるesportsは,後者である"古典スポーツ"に分類されるだろう.この"古典スポーツ"に共通する代理性がesportsをスポーツではないと言わせる理由のひとつなのだ.
ここで言う代理性とは,実際に試合をプレイする意志を持つ者と,フィールドで戦っている者が同一でないということである.盤面で戦うための行動決定権が盤面上にないと言っても良いし,間接感と考えても良い.
"現代スポーツ"において,プレイヤーの行動の決定権とプレイヤーの行動は直接的である.作戦などで制限を受けることはあるが,歩く,走る,ボールを打つ,ボールを蹴る等の動作は,プレイヤーの意思が直接プレイヤーの体を動かす.
しかし"古典スポーツ"のほとんどはそうではない.チェスや将棋では,盤面で戦うのは駒であるが,駒は自分の意志で動くのではなく,プレイヤーの意思でもって動かされる.プレイヤーの意思を受けて,駒たちがプレイヤーの代理として戦っていて,駒に決定権はない.
モータースポーツでも,実際に動くのは車やボートであり,レーサーはあくまで自分の意志を操縦席で発しているだけである.もっと言えばレースカーやボートは選手の所有物ですらない.大枠で言えばスポンサーやパトロンの意志を受けてレーサーが競技していると言いかえることもできる.
esportsも,選手のすることはコントローラーの操作であり,実際の盤面で動くのは電子のキャラクターだ.キャラクターに意思決定権はない.
これらのような馴染みのない"古典スポーツ"の代理性・間接感が,馴染み深い"現代スポーツ"の同一性・直接感との差異となり,esportsをスポーツと言い切れない原因の一端を担っているのではないだろうか.
現状としてesportsがスポーツかを話し合うよりは,どうしたらesportsはスポーツとして認められるかを話し合うほうが建設的だろう.現状はゲームタイトルがそのまま競技になっている.そのため,企業がサービス提供を停止してしまうと,競技として終わってしまう.これを解消するためには,関係団体の合議のもとに,esports用競技サービスを提供する公益団体を立ち上げる必要があるだろう.あるいは企業が提供するサービスが長生きできるような収益体制の構築が必要だ.また,むやみにesports競技の座を狙うゲームが氾濫しないよう,競技として認められるための主要概念や制約の整備も必要だろう.
そういった努力の果に,esportsはスポーツかの回答が世間から得られるのだ.