多拠点生活とシェアと思考の旅 2週目。
先週は京都に行ったり宇城で対話したりながら、「多様性を受け入れる」ということを考えました。
今週はどうだったのでしょう?
最近、アートの楽しみ方を分かった気がします。
元々わたしは、読む本はビジネス書がほとんど、夜寝る前はコレを何回して、朝は何時に起きて、今週は何冊本を読む、みたいにあらかじめ行動ルールを数字に落とし込んだ生活を送っていました。
こうやれば上手くいく、みたいな感覚が強かったのでしょうね。
そんな正解マンだったせいか、今までアート作品を見てもどうして良いか分からなくて困っていました。
「これは、、どう思うのが正解なんだろう?」みたいな感じです。
しかし、最近哲学的なことを考えるようになってから、「アートを見てどう思うかに正解はない」ということに気づかされました。
個人的にはアートって、自分に内在するものを世に出す入り口なんだと感じてます。
なのでそもそも正解はなく、正解があるとしたら自分の中にある、ということかと。
要は「自分が感じるままに見ればOK!」ということだと認識しております。
そう思うと気楽に見れるし、自分の考え事とリンクさせたら新たな発見ができるかもしれない…。
そんな楽しいことはない…!
ということで、今週はアートを楽しむべく、福岡市美術館へ行ってきました。
福岡市にある美術館、何だかんだで初めて訪れましたがすごい良さげな空間ですね。
すっごい大きい池と公園もあるし。
公園では、ランニングしてる人やベンチに座って本を読む人、池を泳いでいるアイガモを眺めて楽しんでいるカップルや家族もいました。
そして、自然溢れる公園の奥には都会のビルが見える。
なんだかNYのセントラルパークに似てるなー、と感じました。
風景、良い良いですね。
今回福岡市美術館に観に行ったのは、「瑞恵×萩原哲夫 2人展」という展示会。
萩原さんは東京を中心にWEB・グラフィックデザイナーや画家の活動をされている超イケてる方。
同じオンラインコミュニティに参加しているご縁で知り合いました。
瑞恵さんは個人的に接点はないのですが、福岡市に住んでらっしゃるとのことで是非お話してみたいなーと思ってます。
萩原さんは蓮の花の絵を、瑞恵さんは言葉を展示されていて、同じ空間に絵と言葉が存在することで、美しいコラボが生まれていました。
個人的には、このガイコツと蓮の花がお気に入り。
あと、この女性の絵も好き。
様々な言葉が溢れています。
「言葉ってアートにもなり得るんだな」と気づかされました。
絵と言葉のグラデーションが美しい。
同時に見れることで、より意味を感じやすくなる印象を覚えました。
展示を楽しんだ後は、萩原さんとお話をすることもでき非常に嬉しかったです。
AFRO PUNKというフェスのお話も聞けましたしね。
自分の喋りの下手さと写真を撮るセンスの無さを痛感しながらも(笑)
非常に豊かな感覚を得られる時間でした。
ありがとうございます。
さて、ここからは展示会を観て感じたことを書いていきます。
おそらく私にしかわからない文章だと思いますので、読み飛ばしていただいてけっこうです(笑)
逆に、ここから何かを感じたい方は是非お読みください。
今回の展示を見て感じたことは、
「自己実現・物事の本質を観るとは、対比されている概念を統合することにある。」
ということです。
瑞恵さんの言葉に
『伝えられたものから極める も 創りあげるものを 極める も 息吹はあなたということ』
というのがあるのですが、
伝えられたものであれ創りあげたものであれ、どちらもこれは自分の息吹。
“いい/わるいの概念”でみても到達できない本質を捉えた領域ですね。
純粋に「すげー!」と感じました。
プロフィールに書いてありましたが、蓮の花は神仏習合の概念として描かれているとのことです。
その概念から、今の世の中では認知できにくい本質の部分を見せられた気がします。
花の色の中には桃色だけでなく、水色や黄色や緑色が入っている。
濃いめの赤色の絵もあるし、女性の中に蓮の花が存在するものもある。
輪郭のほとんどない絵もあるが、間違いなくそれも蓮の花だとわかる。
どんな形であれ「すべて蓮の花なのだ」
現代はあらゆるものが二項対立で描かれている、分断された社会。
それは、市場によって生産者と消費者が分断されたり、国や文化も分断されていたりもする。
なぜそうあるかというと「便利」だから。
「善と悪」のように二つの要素で考えた方が人間は物事を認知しやすい。
しかし、元々それぞれの違いは曖昧で、自然に存在したもの。
それが便利さを得るために解像度をあげた結果、分断され、不自然なものとなっていったと感じる。
そこから生まれた歪みが現代になって噴出してきている。
今の時代に求められているのは、再統合。
再定義と言った方が良いのかもしれない。
そしてその統合することは、“対象の概念を受けとめること”でもある。
自他同一化というか、今まで解像度をあげるために、分断されていたものを戻していく感覚。
解像度をさげていく。
そして、統合した新たな概念で表現していくことがアートであり、言語化したり活動したりすることでもある。
分断されたものを同じ解像度でこねくり回しても、結局同じ文脈からは抜け出せない。既存をディスラプトするだけ。そしてその行為は繰り返す。
これは、一旦潜る必要がある。
ガイコツは蓮の花でもある。
太陽であるか、月であるか。
どちらが“いい/わるいの概念”でみると、解像度が高すぎて受け止められない。
もう少し解像度を下げるなら、“いいなー/イヤだなーの概念”でみること。
すると、ちょっと変わってくる。
究極は、「どちらも照らされている」ということに気づくこと。
自然に戻る概念は、人に安らぎを与えるのでしょう。
そんなことを感じました。
アートっておもしろいですね。
今週末は別府の家に行ってきます。
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