大阪の北新地というところで接客業をしていたときの経験をもとに書きました。
■あらすじ
大阪・北新地の老舗花屋の娘である弥園麻美《みその あさみ》は、印象的な瞳の男性と出逢う。夫がいる身にも関わらず、日に日に増す彼の魅力に抗えなくなっていった。一方、老舗バーの跡を継いだ芦谷雄士《あしや ゆうじ》も同じ頃、花屋で出逢った麻美のことを考えると冷静でいられなくなる自分に気付いた。互いに欲求不満な日々を過ごしており、相手との理想的なセックスを夢想する。自身を破滅させるだけだと分かっていても、葛藤と闘いながら距離を縮めずにはいられない二人なのだった――。
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※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
――私はこの人に、殺されるんじゃないか。
彼と最初に目が合ったとき、そう感じた。これまで人生三十年ほどしか生きていないが、人からあからさまな殺意など感じたことはない。けれどそう滅多にないことを考えてしまうくらい、彼の視線に身体がこわばった。
蛇に睨まれた蛙。
まさにその言葉がぴったりだった。
「花束……こんだけ、適当に見繕ってくれませんか」
一万円札を差し出して、麻美に言った。下腹部が震えるほど低く、神経を研ぎ澄まさなければ聞き取れないほど繊細な声だった。
「贈り物、でしょうか?」
「そうですねぇ、誕生日らしいんですよ」
――らしいんですよ。
ということは特段親しい相手に贈るわけではないらしい。大阪・北新地、この界隈は色恋とお金が一緒くたに流れめぐる繁華街である。男性の誕生日に花を贈る人はそういない。ジェンダーレスが叫ばれて久しい昨今、それでもこの街ではまだ花束は女性へ贈るのが暗黙の了解である。きっと相手は人気のホステスさんかスナックのママなのかもしれない。
「何かお好みの色か、ございますか?」
彼は眉を潜め、威圧感の強い目線をさらに強くし、間をおいてから答えた。
「白か、ピンクか、その辺りでええんとちゃいますか」
――ちょっと待って。ほんまにしんどい。なんやこのお葬式かいうくらい張り詰めた空気は。
新地で老舗の花屋〝フラワーショップ みその〟の娘、弥園麻美《みそのあさみ》は笑顔を引きつらせたまま、肺いっぱいに空気を吸った。店の外を見やると、紅い陽が差し込みコンクリートを照らしている。業者の車が搬入してくるエンジン音、台車を引いて各店舗に配達するであろう酒を積んで移動する者、はたまた氷を運ぶ者、開店準備に走る従業員たちの姿で賑わっている。この街は陽が落ちてからが始まりなのだ。なのに、なんでウチだけこんな命が危ぶまれるような緊迫した空気なのか。
「で、では……ピンクのラナンキュラスとアネモネを中心にこの白いエリカでまとめてみるというのはどうでしょう?」
何本か切り花を取り出して即席の花束を作る。
「エリカ?」
「え、はい。あの、この小さな花がいくつもついてるのがエリカです。全体的に華やかに見えるかな、思たんですけど」
――私、今日生きて日付跨げんのかなぁ……。
心拍音が加速し身体に危機を懸命に伝えている。いっそのこと気に入らん言うて出てってくれたほうがどんだけマシか、麻美の額にじんわり汗が滲む。
「いや、それでええですよ。贈る相手の名前もエリカいうんで、偶然やな思ただけで」
「ホステスさんですか? ほならもっとゴージャスに薔薇なんかも入れといたほうがええですか?」
「そうですね、お任せします。俺、こういうの苦手なんで」
退屈だ、といわんばかりに溜息を吐いてどこかに寄り掛かりたそうに辺りをキョロキョロ見回した。生憎店内は花で埋め尽くされており、人が座って休憩する場所もない。仕方なく片脚に体重をかけて腕組みをしている。Yシャツの袖にはカフスボタン、青字ストライプのネクタイに黒のベスト。頭一つ分抜けるほどの高身長が痩躯長身《そうくちょうしん》に映る。前髪は重めにサイドへ流し、銀縁眼鏡の奥に潜む瞳は目尻が切り込んでいる。その瞳が今まさに麻美を睨みつけているのだ。服装からしてバーテンダーだろうか。
「ほな、準備しますんで、もう少しだけお待ち下さい」
――客がどういう理由でどういう相手に花を贈ろうが、ウチに任せとったら間違いない、そう言われるようなアレンジをするだけや。多分無愛想なだけで仕事はきちんとやらはる人なんやろう。そうやなかったら「誕生日らしい」だけで花なんか贈らんはず。ピンクばかりも味気ないからアクセントに薔薇は赤でいこう。ベタやけどベタが一番喜ばれるはず。薔薇が嫌いなホステスさんはあまりおらんのちゃうやろか。
麻美は一番無難で最短で提供できるパターンを考えた。取り出した切り花をカウンター奥の作業台でまとめラッピングを施す。白地にゴールドの包装紙を重ねる。
「ごめんなさいね、お待たせしました。これでご予算ちょうどです」
「……どうも」
彼は手にした花束を親の仇の如く睨みつけ、またも考えに考え抜いた様子で言った。
「綺麗やな」
「よ、良かった。きっとエリカさんも喜んでくれはると思いますよ」
首皮一枚で命が繋がったような、愛想笑いに混じって安堵の溜め息が漏れる。
「ほな、おおきに」
彼は花束を左腕で抱え、シャツの胸ポケットからメビウスの煙草を取り出し片手で器用に一本口に咥えた。麻美は慌てて、店のドアを開ける。外に一歩出たところで煙草に火を着けそのまま去っていった。
「ありがとうございました」
麻美は深々とお辞儀し、彼の背中を視界から見えなくなるまで見送るのだった。
* *
「芦谷さん、今年もありがとぉー。エリカ嬉しいわぁ、今まで一番感動したかもぉ」
「何言うとんねん、それ毎年同じこと客に何回も言うてんねやろ」
――相変わらずのその甘ったるい声、どうにかせぇや。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口に含む。乾きで張り付いた喉とエリカの声で焼けた胸を水で流し込んで誤魔化した。
新地から新御堂筋を挟んで東側兎我野町にあるラブホテルの一室。エリカがナンバーワンホステスになって数年。枕営業なんぞもう必要ないほど稼いでいるはずだが、相変わらずやめようとはしない。これが三十年前なら、「枕営業でしか売れない嬢なんて、下品極まりない」と番付から除外されたに違いなかった。
《北新地のホステスは教養と品を兼ね備えている》
なんて遠い昔のおとぎ話でしかない。そんなものはバブル景気の終焉と共に終わった。まだ先代が生きていた頃、足繁くウチに通う常連客たちは皆口を揃えてそう愚痴った。
「なぁ、まだ元気やんな? あともう一回だけ、しよ?」
エリカはキャラメルみたいな香りを漂わせて、雄士のバスタオルに包んだ下半身に触れる。
「……」
セックスするのが好きならもっと他に仕事あったんちゃうんか、と雄士《ゆうじ》は思った。いくら先代の頃からの上客とはいえ、稼ぎは雄士のほうが低いだろうに何故貢ぎ続けねばならないのだろう。ホステスもバーテンダーもそうだが、枕営業がこの業界には必須というわけではない。けれども決して景気の良くないこのご時世、経済的に余裕があるか異様に色欲に執着している奴らばかりで回っているこの世界、金を持っている奴やそういう奴らとのパイプが太いエリカのような嬢は、セックスで快楽の手綱を握っておかないと客は離れていくばかりなのだ。
「この一本吸ってからな」
雄士はエリカの身体に触れるのを先延ばしにしたくて煙草に火を着けた。彼女の美貌は申し分ないとは思う。誰もが綺麗だし美しいと言うだろう。別に三日で飽きたわけでもない。
――俺はこいつの声と匂いと、とんでもなく緩いナカが嫌いやねん。喘ぎ声はきゃんきゃん口やかましいわ、指突っ込んだって腐ったアボカドみたいにぐじゅぐじゅで色気もへったくれもない。ハリボテいうんはまさにこいつのことやろ。誰彼構わず寝すぎや。こんなんがナンバーワンなんて、新地も落ちたもんや。
もっと俺好みの反応をしてくれる女はおらへんのやろか。
雄士は目を瞑ってその実在するかしないかの女性を想像し始めた。ふいに、夕方花屋で会ったあの女性の顔が脳裏によぎった。化粧が濃かったわけでもないのに凛とした目元、長い睫毛、健康的な頬の赤み、主張しすぎない桃色の唇、唯一露出していた妙に色気のあるうなじとデコルテ。新地にはたくさん女がいる。地味なのも派手なのも。両方見てきたつもりだった。けれど、最初に目が合ったとき何故だか思ってしまった。
この女《ひと》を抱いたらどんな反応をするのだろうか。
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