この連載をしている宴会なんだけど
まだ連載は続くのだけど、ここでは、ちょっと番外編。
彼ら戦後障碍者運動の生き証人たちとも言える人たちの話を聞いている間にそれは突然始まっていたのだが、
僕をこの宴会に誘ってくれたK・Jさんの娘さんのYUNAちゃん(21歳)が、立ち上がって
「You raise me up」をアカペラで謳っていた。
この曲である。
この曲は非常に多くの人々によってカバーされているが、僕はYUNAのボーカルは、そのどれにも負けず劣らぬものだと思って感動した。
爆風スランプのメンバーの誰かにもYUNAちゃんは「この子は絶対音感がある」と言われたらしいが、まさしくそんな感じ。
そして、それはあまりにも絶対的なものなので、完全なるカバーであって、言語学で言うミニマルペアという考えかたを越えていると思った。
ミニマルペアとは何かというと、発音なら発音、文字なら文字で、この発音である、この文字である、他のものではないと区別するための必要充分条件。
そういうと難しく聞こえるが、要するに、ミニマルペアを守っていれば、相手に伝わる。
たとえば、0歳でアメリカに渡った僕の娘は英語の発音が完璧だった。
そこでこんなことを経験した。
僕の耳では「これ」と「あれ」はミニマルペアが違うから娘の発音が間違っていると感じることがあった。
たとえば娘が舌を噛むようにして(はっきり噛んでいるわけでもなかった気がするが)thを発音すると t に聞こえて、僕にしてみればそれじゃtになっちゃうからもうちょっとsに近づけないとthにならないよーと聞こえるのである。
veもそうだったように思う。
娘が唇を噛むとfに聞こえるので、もうちょっとbに近づけないとveにならないよーと僕は感じた。
これは音を区別するときのミニマルペアの境界線が違うからであって、実際には日本語のミニマルペアで違うと感じている僕よりも、娘は英語のミニマルペアを守っているので、相手には結局娘の発音の方が伝わるのだ。
これが言語学的にミニマルペアを守るということだ。
このミニマルペアという概念は手話にもあてはまり、それを守れば、揺れ幅があっても相手に伝わる。
さて、音楽理論は僕はさっぱり知らない。
が、思うにこのミニマルペアに似たようなものがある気がする。
すなわちこれはCであって、C♯にぶれてもいないし、C♭にぶれてもいないというCの範囲というものがある気がする。
それを守っていさえすれば、僕のような普段音楽に関わっていない人間は、音痴だとは思わない。
しかし、それとは別に波長に寸分の狂いもない完璧なCというものは世の中に存在すると思う。
才能のある調律師が完全に調律したピアノのようなものである。
同じCでもそれは完全なC。
Cのイデアである。
たぶんそこらに売っているギターの調弦器での調弦は目盛りを見てブレなくチューニングしたつもりでもここまで完璧ではない。
僕はYUNAが謳っているとき、すべての音階が寸分の狂いもなく、完全だと感じた。
まるで完全に模写された絵が、元の絵と、誰が見ても区別がつかないように。
そういうものは実はおもしろくないという意見も世の中には存在するかもしれないが、僕はYUNAの歌声に感動していた。
それは元々の作詞作曲者がこの歌にこめた魂も完璧にカバーしていた気がした。
(ついでに言うなら、英語の発音も、ミニマルペアを守っているだけではなく、僕の娘と比べてももっと完璧な気がした。あえていうと、語学的には(伝わるかどうかというだけなら)必要のない完璧さである。)
実際、他のテーブルに座っている、関係のないお客さんも、こっちを見て、驚いたようにYUNAに視線を注ぎ、耳を澄まし、連れと何か話して頷きあっていた。
自分の娘でもないのに、僕はだんだん得意になってきたよ。
ここのテーブルは障碍者の集まりではなく、天才の集まりなんですという気分になってきたよ。
まあ、たぶん May J よりは、いいボーカルだったと思う。
時々、ライブもやっているらしいので、聴きにいきたいと感じた。
「障碍者」がここまでできるという意味で聴きにいきたいのではなく、その本物のボーカルをただただ聴きにいきたい。
謳い始めると突如別次元に入ってしまうYUNAだが、謳いおえて、会話に戻ってくると、声には揺らぎがあり、ごくごく通常。
立ち上がって、音楽というものに入ったとたん、脳神経回路が切り替わったように完全な世界と一体になるその様子は、僕にあるものを思い出させた。
それは、80を越えた合気道の達人が、今にもよろけそうな姿で試合会場にやってきて、
試合が始ったとたん、まるで別人になったように凜として、若くて強いはずの相手をなぎ倒す「名人ビデオ」である。