
この件なんだけど、
ジョン・レノン役のおじさんですら、
僕が涙が止まらなかったと言っても、
すました顔で黙って聞いていて、
何も言わなかった。
ありがとうございますと商売トークしないのは、むしろ好感持つ。
が、たぶん、仕事としてやっているうちに、
ノスタルジックな感傷を投影されることには、
うんざりになっているんじゃないかと、後で思った。
世の中には、ビートルズ世代と括られること自体に
嫌悪感を持つ人もいるし、実は僕だってイヤだ。
てか、僕はビートルズ来日の1964年には4歳で、ひとつ下の世代だけど。
だから、それだけの説明では、ノスタルジックな感傷だと思われても仕方ないし、
上記の昨日の僕の記事も、
勝手に感傷に浸ってろよ、おっさん、という感じで、いいねが少ないんじゃないかと思う。
でも、この感じは、ノスタルジックな感傷じゃないこと?を、僕はなんとか書きたかったのだ。
楽器の音や意味の判明しない英語の歌声が、体に直接入ってきて
その間だけ、生きていることには価値がある感覚が持続し、
曲が終わるとそれは消えて虚無になる。
自殺する?
明日も学校に行く?
と考え始める。
だから、レコード針をまたプレイヤーに落とす。
その音楽との付き合い方は、ビートルズとしか、したことがない。
分析したり、意味を求める脳の活動は、発動してなくて、ただ聴くことで心身が満たされる。
似ているものがあるとしたら、
子どもが同じ歌や話を繰り返し、
もう一回!とせがむこと?
それは価値体験だと思う。
僕は歌をもっと、体と心の、心寄りで聴く大人になって、
こんな風に聴いていた頃のことを忘れていたのだ。
もちろん、歌をハートで聴くことは、とてもいいことだ。
吉井和哉のヘルプのカバーはジョン・レノンよりハートがある。
だが、ビートルズはむしろ、そっちにいかない。
今の僕は歌は吉井和哉のように歌うものだと思ってるフシがある。
だけど、10代の時は違ってた。
それは子どもの遊びと思ってたけど、
だからこそ、
それにはどんな尺度にもはまらない価値があるのだ。
感覚的に完全に思い出したから、
次回からレコード鑑賞でも再現できると思う。












