僕が1986年にうろちょろしていたのは台北のどのあたりなのか。
光景も変わってしまっていてよくわからない。
当時はMRTもなかったし、僕は空港からバスで市街中央あたりに行き、徒歩でうろちょろしたり、バスで故宮博物院や映画村に行った憶えがある。
僕が泊っていた安宿は、台北市駅の南側あたりなんじゃないだろうか?
そう考えて行ってみる。
なんとなく見覚えのあるような通りはあった。
まだ中国語の初歩も知らなかった僕が「なるほど。マクドナルドは麦当労と書くのか」と関心したのはここではなかったか。
ではこの通りのどこか安宿に僕は泊っていたのか。
そういえば、よくこんな感じのお店で食事していたなあと思わせるような食堂があった。
本当に僕が泊っていたのはこの通りかもしれない。
当時を懐かしむようにして、ぶらぶら歩いていると、見たこともない公園に出た。
二二八和平公園。
この公園は初めてだ。
それもそのはず。まだ戒厳令下にあった一九八六年の台湾では、二二八事件は、検証してはならない最大のタブーの一つであったことを僕はこの公園の中のミュージアムで知ることになる。
広い園内はよく整備されて美しく、その風景に溶け込むようにして野宿者がいた。
女性ふたりの野宿者だった。身体が不自由なのだろうか。車椅子が見えた。ふたつの要求を主張しているようだったが、今いち何を要求しているのか、ぴんと来なかった。私の中国語もまだまだであるし、台湾の政治情勢についての正確な見取り図が僕の中に存在しない。その中で彼女らがどういった立場から発言しているのかもわからない。
なんとなく一人は先住民っぽい風貌で、一人は漢民族っぽい風貌なのも、一緒に何を主張しているのかの謎を深めた。
僕の拙い中国語でも「我可以拍照吗?(写真を撮ってもいいですか?)」程度は通じるように発音できる。「可以。可以。(いいよ。いいよ)」と言ってもらったのでこの主張について後で解読しようと思って撮影した。
でも、帰国後、台湾人や中国人も含め、けっこういろいろな人に聞いたけど、直訳できる人はもちろんいるのだが、政治的解説ができる人がいない。または、たぶん僕と立場が異なると思い、政治の話をしたくないのかもしれない。???
(後記 その後も色々な人の協力で、結局こう訳すことができました。何か誤訳があれば教えてください。
1.原住民居住地の区画割りをやり直せ。
2.原住民委員会長官の夷將(名前)は辞任せよ。
原住民委員会が不当な区画割をしたため、原住民の土地がさらに奪われたことへの抗議のようです。)
それにしても、整備された綺麗な公園だった。
樹木には棲みついているリスがいた。人によく慣れていて、人の手から餌をとって食べる。ただし、もらうとすぐに引き上げて、樹の上の方まで逃げてから食べる。それは却ってかわいらしい仕草に思えた。
そんなのんびりした時間を過ごした後、珈琲でも飲もうとカフェに近づいて、ふと目についたものがあった。
どう見ても受難者の写真が並べてあるのである。そういえば、この公園の名前の二二八和平とはどういう意味なのだろうか。
僕はまったく知らなかった。それもそのはず、僕が前回訪れた戒厳令下の台湾では、この二二八事件を掘り返し、検証することは、ほぼ完全に弾圧されていて、歴史は深く埋められていたのである。
しかし、その後、民主化の時代を迎え、二二八事件はその真相を暴かれていくことになる。その検証され直した事件についての展示館がすぐ目の前にあったのである。
二二八記念館。
結果的には、このミュージアムで知った台湾の現代史が、今回の台湾旅行において、最も衝撃的なものとなった。(つづく)