アメリカのサンディエゴに住んでいたころ、アラスカ旅行をした。シアトルでちょっと遊んでバンクーバーへ行き、ビクトリアなども観光したあと、バンクーバーから家族4人でクルーズ船に乗った。
シトカなどカナダの小さな港町に時々停泊し、その周辺を観光しながら最後はアンカレッジに着いた。アラスカに着くと、川をさかのぼる鮭の大群に驚かされた。倭人が来る前のアイヌモシリもこうだったんだろうと思わされた。
足でじゃぶじゃぶ入れるような小さな川でもサケは必死で登ってくる。足を濡らす気さえあれば、簡単に手づかみできそうだった。子どものころ、そうやって近所の小川でモロコをつかまえたのを思い出した。
当時3歳だった私の娘は「お魚! お魚!」とただ大喜びだった。5歳の息子は「これをとって、今晩のおかずにしよう」と言った。クルーズ船のシェフに頼もうと言うのだ。しかし、このとき、私や妻などの大人の脳裏に浮かんだのは、これを網で大量に獲って缶詰にして売れば大儲けできるというものだった。
実際、その近くにはサケを缶づめにするセンターなどが見学施設も兼ねて、存在したりした。
このとき僕は悟ったのだ。太古より人類はだいたい5歳の息子のような意識で自然と接していた。今日食べるものが得られれば、それで恵みは十分だ。しかし、ヨーロッパ人がこのアメリカ大陸にやってきたとき、すべては僕が見たように見えたと思う。
誰のものでもないこの手つかずの自然を元手に大儲けができるぞ!
そう考えてみると、森林は建材であり、ミンクは襟巻であり、地下には金や石油が眠っている。これを全部経済に組み込んで自分に集中しようというのが、近代人の意識だ。
後戻りできないほどの破壊はそこから始まっている。日本はたとえばアイヌモシリの森林を製紙に換えるなどして資本を築き、西欧人はアメリカ大陸のありとあらゆる自然を資本にすることによって、巨大な資産を創り上げた。
なぜ、今晩のおかずにできる。川に行けばいつでもそこにある。という地点で止まることができなかったのか。
今では放射能汚染も加わり、すべてが手遅れに見える。