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・ ケン・ウィルバーによるフラットランド批判
驚いたことに、同じことは、ベトナム出身の歴とした仏教僧であるタイ(ティク・ナット・ハン)にも当てはまる。
つまり、彼は縁起の法をこの世界の水平次元での相互依存として説いているのである。
彼は、般若心経の空(または縁起)の思想を「一枚の紙に雲を見る」という言葉で詩的に表現している。
魅力的な表現だが、ここに言い表されているのは、時空認識の二元構造そのものを解体するという意味での仏教思想ではない。
そうではなく、「この世界が、自然が、万物が、相互依存によって成り立っている」という生命の織物の思想を表明しているのである。
タイは言う。
「もしあなたが詩人であるなら、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいるのをはっきりと見るでしょう。雲がなければ雨はないでしょうし、雨がなければ木は育たないでしょう。そして木がなければ私たちは紙を作ることはできないのです。(中略)ですから、雲と紙は相互依存していると言うことができます」
紙の中に雲が見え、紙が空(そら)となって忽然と消えてしまうようなイメージそのものがもつ感触は、どこか瞑想的である。
隠喩としては、それは瞑想的な意識、すなわち垂直的な超越性原理=空(くう)の感覚を触発する。
その詩的な触発性の故に、私たちは、一瞬はっとして空(くう)なるものを垣間見ることができるのだ。
しかし、言説の内容を冷静に見るならば、これは十二縁起としての仏教思想ではなく、むしろこの世界に関する物質の科学である。(その限りでは間違いはない)。
事実、タイ自身が自分の思想を科学であると言うことがある。
「前世において、自分たちが樹であったことを、私たちは知っています。もしかしたら、樫の木であったかもしれません。こう考えるのて若い生物であり、最近になって地球上の現れたに過ぎません。その前には、私たちは岩であり、気体であり、鉱物であり、さらには単細胞でした。植物であり、樹であり、そして今では人間となっているのです。」(『ビーイング・ピース』p41)
ケン・ウィルバーは、『万物の歴史』『進化の構造(1)(2)』で「四つの象限」という考え方を打ち出している。
詳細をここに紹介する暇はないが、簡単に言えば、彼は進化のすべての段階において、存在を同時に四つの象限において把握することができるとしている。(四つの象限の詳細図、参照。『進化の構造1』p305より転載)(図5)。
その四つとは、「内面的で個的な左上の象限」「内面的で集合的な左下の象限(文化的)」「外面的で個的な右上の象限」「外面的で集合的な右下の象限(社会的)である。
彼は、ディープ・エコロジーや、シャーマニズム復興運動は、集合システムの外観(右下の象限)だけしか見ていないと言う。
それ故に、すべてを平面的に見る傾向にあるとするのである。
それは左側の内面的な深さ(垂直次元)を無視して、右側の平面世界に折り畳む行為であると批判する。
ウィルバーによれば、世界を相互連結した全体として見るエコロジー派の「微妙な還元主義」は、すべてを原子に還元するいわゆる機械論的な近代科学の「粗い還元主義」とは確かに違う。
しかし、どちらも内面的な次元を無視して、物質的な外側だけに注目していることには、変わりはないとするのである。
ウィルバーに言わせれば、私たちの存在は「単に経験的な全体(フラットランド)に水平に相互連結しているだけでなく、非二元的な一者を希求する垂直の変容を持つ大いなるホロン階層に調和している」(『進化の構造Ⅱ』p233)のである。
この説明は、一部、私の問題意識にも重なる。
ディープ・エコロジーやタイの説くような仏教思想は、識・名色の二元論的構造を超越する思想なのではなく、むしろ生態学的な生命の織物への回帰の思想である。
環境運動や先住民運動とも連なる形で、シャーマニズム復興運動が盛んになってきた事に関して、ケン・ウィルバーは『万物の歴史』『進化の構造』Ⅰ・Ⅱにおいて、「水平世界(フラットランド)への折り畳みが起こっている」として強い調子で批判している。
このことは、ウィルバーのエコ派批判として、大きな波紋を投げかけた。
・ 生命の織物の側から
星川淳は、「万物の歴史 その収穫と疑問」で、ウィルバーの見解は、彼自身の以前の言説に比べても、直線的な進化論に傾いており、物事の螺旋様の発展過程を軽視しすぎていると批判している。
先住民シャーマニズムや、ディープ・エコロジーの世界に深くコミットメントしてきた立場からの、実感に基づいた反論ということができるだろう。
私自身の考えを述べよう。