一九九四年から九七年まで、米国に三年間滞在していた私はアラスカ、カナダ、メキシコ、ジャマイカに跨って、数多くの旅をした。
その際、何度かは自然の中で完全にひとりきりになった。たとえば、ある朝早く、妻と子どもをキャンプ場のテントに残したまま、ひとりで林の中に入って行った。
わずかながらも人の気配のあるキャンプ場を遠く離れて、原生自然の中に入っていくと、驚くべき知覚の変容が生じ始める。
まず第一に聴覚が恐ろしく敏感になる。風の音、小動物が草を分けて進む音などが、すぐ耳元で鮮明に聞える。
これには実際の危険を察知するという効用もある。
なぜなら実際にこの地域の山中では、キャンプ客がマウンテン・ライオンに襲われて死亡する事故が、年に数人の割合だが生じているからである。
私はその事を知っていたので、警戒していたわけである。
しかし、不思議な事にそれは恐怖でびくびくしているといった状態ではなかった。
ただただ知覚がさーっと晴れ渡り、感覚が四方に向かって鋭敏に広がっていくようなのだ。
耳朶は生きているアンテナになって、小さな音にもその向きを微妙に変化させているようにすら感じる。
まるで草食動物としての深い本能が蘇ったかのように、自分の能力が拡大しているのがわかるのだ。感覚だけでなく、意識も拡大しているように感じたと言ってもいい。
言うなれば、私はいつもよりも幸せだった。
というより、ふだんはこれらすべての能力を眠らせて、ぼんやりした意識の中にまどろんでいただけではなかったかと疑った。
もしかすると、今この状態こそが生き物としての人間の能力を当たり前に開いた「通常の状態」ではないのか。
ということは、ふだん都会生活の中で私はほとんど死んでいるようなものではないか。
真夏の日もだんだん高くなってきて、汗が流れるので、私は大きな木の影にしゃがみこんだ。
さっと風が吹くと、草が一斉になびく。
同時に私の首筋にも清涼感が吹き抜け、ああ、本当に気持ちいいと思う。
すると足下のシダの葉が、「そう、本当に気持ちいい」と応えたように感じた。
ふと見ると、私の足下にはシダの葉が広がっていて、その棲息範囲は、ちょうど今私が休んでいる木陰の形と一致している。
影の外の光の下には別の植物が広がっている。「そうか、シダも同じ気持ちなのだ」と私は想った。
ガサっとやや大きい音がして、私はしゃがんだまま振り返った。
十メートルほど向こうの木立の中に、五、六頭の野生の鹿の群れが見えた。立派な角が生えたものもいて、格闘するにはふさわしくない。
私は自分の大きさを知らせるため、相手を驚かさないように、ゆっくりと立ち上がった。
鹿たちは草を食みながら、ゆっくりと林の中を進んでいる。
うち一頭の立派な体つきをした者だけが、一歩私に近い位置で、私の方をずっと見ている。透明なきれいな目で私を見ている。
私も自然な姿で立ったまま、じっと彼を見つめる。
その時、私の中にふいに敬意のようなものが湧き上った。
群れを守って、一歩前に出てこちらを見ているその鹿に。
いや、その一つの行為にではなく、彼がそうやって生きている、彼らがそのようにして生きている事に、深い対等性のようなものを覚えたと言ったら、いいのだろうか。
話は飛ぶが、その深い対等性の意識は、アラスカのデナリ国立公園の中などで、野生のクマや、ヘラジカ、カリブーなどと出遭った時にも感じた。
言葉で表現するのが難しいのだが、ここで私の言いたい対等性とは、敬意=深い対等性といった感覚だ。
対等性と言うと、いわゆる「どっこい、どっこい」という言葉で言い表されるような軽いニュアンスで捉えることもできなくはない。
それに対して、敬意という言葉は、相手を自分より上に見ていて、そこに優劣の関係を考えているようにも思う。
しかし、このときの私の感じたのは、対等だからこそ敬意を感じ、敬意を感じるからこそ対等だと感じるといったものだった。
相手との対等性を感じれば感じるほど、自分自身の崇高さにも(思い上がりとは無縁に)目覚めていくというのだろうか。
生命の崇高さに目覚めていくというのだろうか。
これまでも私は頭の中では、動物と人間をある意味では対等なものだと考えてきた。だが、幼い頃から動物園で何度動物を見ても、この敬意=深い対等性といった敬虔な思いは生じる事がなかった。
妻に聞いてみても、全く同じ事を言う。アラスカで野生動物を目の当たりにしてから、動物に対する思いはまったく変ってしまった・・・と。
なんと言ったらいいのだろう。
生きて死んでいくということの原風景に立ち会ってしまう体験だとでも言えばいいのだろうか。
星野道夫氏は、地球先住民的な感性に満ちた優れた写真家であった。
その彼は『ナヌークの贈りもの』というシロクマ(ナヌーク)の写真集の中で「われわれは、みな、大地の一部。おまえがいのちのために祈ったとき、おまえはナヌークになり、ナヌークは人間になる。
いつの日か、わたしたちは氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としても わたしがいのちを落としても どちらでもよいのだ」と書いている。
私は、野生動物を自分の目の前に見たとき、その星野道夫の言う意味が、わかったような気がした。
命の対等性の地平に、限りなく自己自身が開かれていく感覚……。
実際、星野道夫氏はこの写真集を刊行した後、カムチャッカ半島でクマに襲われて亡くなっている。
部族シャーマニズムの世界には、このような根源的な命の対等感覚や、広がりの感覚があるようだ。
そんな中で、聖なる表象として動物が選ばれるのは、きわめて自然なことだ。彼らの動物への敬意は本物であり、彼らが動物の姿に神を見るというのも真正な体験である。
(拙著「魂の螺旋ダンス」より)