日本では奈良の興福寺などが権力と一体化し、初期の念仏集団を弾圧し、法然や親鸞、その仲間に死刑や流罪を行った。(歎異抄の附録にもその一覧が付されており、私の本でも訳している。)
興福寺はまた椿井文書などの偽書との関係性も深く、いろいろな寺や家が、その偽書の由緒書きで自分を権威づける偽の近畿史をつくってきた。
枚方市の歴史もそのことに深く関係していたため、多くの嘘が歴史とされてきた。
椿井文書はよくできた文書で各地で発見されたものの辻褄が合うパズルになっている。
そのため、多くの歴史家がこの文書に騙され偽史の形成に一役買った。
表面的な史学では、こっちの文書とこっちの文書が一致しているということは、それが真実であるという証拠であるとなりがちである。
馬部隆弘さんらの歴史学者の史料批判の優れたところは、それに騙されたままにとどまらなかったところだ。
すなわち、それらがひとつの源(興福寺が一役買っていることがよくある)に行き着くことをつきとめていったこと。
複数の源にいきつく別説より信ぴょう性の薄いことなどを暴露していったのだ。
このために枚方市の歴史も大きく修正する必要がでてきた。
枚方市の歴史には興福寺との偽の由緒で数々の嘘によって塗り固められていたのだ。
これを明らかにした「枚方の歴史」は野村呼文堂などでは「蝶を放つ」なんぞは足元にも及ばないベストセラーになった。
僕は中央図書館市史資料室におられた馬部さんにはアテルイ塚の嘘を暴いた記事を地域情報誌に書くときたいへんお世話になった。
(普通の司書は、僕が指定した史料を探せない。馬部さんにいうと、書庫に入って一分で、歴史雑誌からの1mmの厚さもない抜き刷りを持ってきてくれる。)
だが、このような調べごとをして文章を発表すると、史跡をブランドにしたい市政の、市長をはじめとしたお役人や、史跡の祭りを司る神社、地元の商店街などから嫌われるのである。
僕は嫌われるだけですんだが。
馬部さんの功績は大きすぎたためか(?)、彼は市史資料室から転出した。
「馬部さん、おられますか?」と訪ねていくと、
「彼は転勤しました」と答えたおじさんの目が泳いでいた。
「『枚方の歴史』にいい論考をたくさん書かれていたのに」と僕が言うと
なんとなんと
「あの本は私たちのつくったものではありませんから」
というのである。
はあ?
なんか言い草が変だろう。
あの優れた本をつくったのがなんだか悪いことだったみたいだろう。
あれは本当に枚方市ではよく売れたぞ。
「私たちじゃありませんから」と突き放すもんじゃないだろう。
僕には二つの声が聞こえた気がした。
空耳だったら、ごめんなさい。
「私たちにはあのような優れた本物の歴史書はつくれません」
「私たちは枚方市に忠実な職員ですから、枚方市のブランド(中司元市長が好んで使った言葉)を汚すようなことはしません」
話は戻るが、初期念仏教団はそのラディカルな思想のゆえに弾圧されたが、
やがて権力に取り入った浄土真宗の教団は、天皇家とも関係を深め、
今度は自分たちが一大権力となっていく。
そして明治にはアイヌ侵略の尖兵となり、先の戦争ではこじつけに満ちた戦時教学で大日本帝国を後押しするのである。
このように仏教が国家権力と結びつくことが常態化している日本について、私たちはよくよく意識しなければならない。
拙著『臨死体験であの世がわかった著者が訳した超簡単訳 歎異抄・般若心経』より
歎異抄 附録
後鳥羽上皇の院政の時代でありました。
法然上人が、宇宙の無限の願いによって、老若男女貴賤を問わず、肉を食べても、セックスしても、障害があってもなくても、善い人でも悪い人でも、たとえ人を殺してしまっても、宇宙の無限の働きを信じ、念仏申そうと決意するなら、誰でも無条件に解放されると約束する念仏宗を興されました。
このとき、奈良の権威ある興福寺の僧侶たちが、旧来の道徳的観念からくる敵意をもって、このことを上皇に伝えた上で、お弟子さんたちの中にはとても悪いことをした者たちがいると申し上げました。
このとき、無実の風聞によって、罪に処せられた人は以下の方々です。
申し上げます。
法然上人、およびそのお弟子さん七人が、流罪のうちでも最も重い遠流(ルビ・おんる)の罪に処せられました。
またお弟子さん四人が死刑の中でも、首を絞めて殺すよりも重い、首を斬って殺す死刑に処せられました。
法然上人は土佐の国(現在の高知県)の番多(はた)に流されました。その罪によって僧籍をうばわれ、俗名を藤井元彦と改名されました。七六歳になられていました。
そのとき、親鸞聖人は越後(現在の新潟県)に流されました。その罪によって僧籍をうばわれ、俗名を藤井善信とされました。
三五歳であられました。
その他にも、浄聞房(じょうもんぼう)は備後の国(現在の岡山県から広島県にかけての地方)へ。
澄西禅光房(ちょうさいぜんこうぼう)は伯耆の国(現在の鳥取県から島根県にかけての地方)へ。
好覚房(こうかくぼう)は伊豆の国(現在の静岡県の伊豆地方)へ。
行空法本房(ぎょうくうほうほんぼう)は佐渡の国(現在の新潟県佐渡ヶ島)へと遠く流されました。
幸西成覚房(こうさいじょうかくぼう)と善恵房(ぜんえぼう)の二人は、同じように遠く流されることに決まっていたのですが、無動寺の善題(ぜんだい)大僧正がこれを預かったため、遠く流されることを逃れました。
どう取り入ったのか、転向したのかどうかは今は問いません。
遠い国へ流罪となったのは以上の八人でございます。
次に首を斬りおとされ、死刑になった人の名前を挙げます。
一番 西意善綽房(せいいぜんしゃくぼう)
二番 性願房(しょうがんぼう)
三番 住蓮房(じゅうれんぼう)
四番 安楽坊(あんらくぼう)
二位という高い位の、僧侶としても権威ある和尚がこの死刑を執り行いました。
このとき善綽房の身から流れ出た血は蓮の花となり、性願房の斬りおとされた首の口からは蓮の花が咲き、住蓮房の斬りおとされた首からは光が輝いてそのまま落ちた首が念仏を一〇回以上称え、安楽坊の体は首が落ちた後も合掌してお念珠をくったという伝説が残っております。
越後に遠く流された親鸞聖人は僧籍をうばわれて俗名をもらうことになりましたが、髪は剃ったままでしたので、もはや僧でもなく俗でもない、ただ髪のない禿げになったのです。
そこで 禿(ルビ・とく)つまり「禿げおやじ」という字をもって姓とすることを後鳥羽院にお願い申し上げ、認められました。
この申し出の文章は、今も朝廷の記録のための役所に残っております。
流罪以降は、愚かなる禿げおやじ親鸞と名告(ルビ・なの)って、自分の署名をされました。
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