・ 「超越性」と「絶対性」
「超越性」と「絶対性」の区別は、とても微妙なものだ。
超越性宗教における「超越性」とは、厳密には「自我が崩壊し光が満ちるダイナミックなプロセス」の真っ只中にだけ観ることができる。
それは時には劇的な心身変容体験として訪れる。
だが、それは固定することができない。
「超越性」とは無限に展開している働きの名前であって、何かあるひとつの状態を指すのではない。
問題は、私たちは一秒よりも短い時間の間にも、超越性の体験を自我に取り込んでしまうという点にある。
そうやって私たちは自我を立て直してしまう。
超越性の体験をプロセスのままに展開させ続けるかわりに、その「超越性」を絶対化ししがみつく。
超越性の体験以前の自我は、世間的な何かにしがみついていたかもしれない。
それが今度は宗教的な何かにしがみついた自我に変更されたのである。
強烈な体験によって立て直された自我は、以前のあの「不安におののく魂」よりも、さらに始末に終えないものに変質している場合すらある。
チベット仏教の導師チョギャム・トゥルンパはそれを端的に「精神の物質主義」と呼んでいる。
たとえば「イエスによるあがないによって義とされる」という強烈な回心体験そのものは、時に非常にリアルなものだろう。
自我が崩壊し、神の光が満ちる。
それは心身の変容体験として、驚くべき出来事だったかもしれない。
しかし、しばしばそこから「イエス」の絶対化が起こり、日々「イエス」の名前を反芻する生活が始まる。
もちろん深い自覚とともに「原点にあった祈り」を更新し続けることができれば良い。
日々新たに「イエス」が体験され、日々新たに「イエス」の名が呼ばわれることは、無限に展開し続ける超越性運動となりうる。
それはけっして単なる「反芻」にはならない。
だが、その事はおそろしく困難であると私は(わが身を省みて)感じる。
自我が崩壊し、神の光が満ちるという「啐啄同時」のその瞬間そのものにあった純粋な運動性そのものは一瞬のうちにも失わる。
むしろ自我が、その貴重な体験を回収し、自らの拠り所として固執するに至る。
私は青年期の懊悩の中、ラジニーシという一人のグルによって、意識の根源的な解放を垣間見せられた。
そこから私がラジニーシという一人の男を聖なる存在として崇拝し、絶対化することまではほんの半歩の距離であった。
私にとってラジニーシに対する崇拝に陥ることなく、また自らの神秘体験を絶対化することもなしに、「あるがままの今ここに開き続ける」ことは恐ろしく困難なことであった。
この「絶対性への傾斜」の問題は、あらゆる超越性宗教における問題である。
「宗教」という時、自在でやわらかな感性を重視する多くの日本人の中に呼び起こされる抵抗感は、実はこの「信仰の絶対化」に対する健全な抵抗なのである。
そういった人々の宗教への抵抗感は巨大な宗教教団に対しても、小さなカルトに対しても向けられる。
そこには実は信仰の絶対化という意味では、同じ問題性が含まれているからである。巨大な教団を持つ絶対性宗教と内閉的なカルトは、実は「絶対性」という一枚のコインにおいて裏表の関係にある。