2005年から2006年に、社団法人子ども情報研究センター編集発行「はらっぱ」に連載した「ジェンダーの視点から」シリーズより、再掲していきます。
第一回目のテーマは「文学」です。
「ジェンダーの視点から文学を論じよ」ということだが、ここではとりあえず、この島の文学史の初めから、最古の書物『古事記』、最古の物語『竹取物語』、男性による最古のひらがな文学『土佐日記』の三つをスキップしてみよう。
『古事記』冒頭には、独り神の系譜の後にイザナギ(男性神)、イザナミ(女性神)の二神が交わることを通じて成し遂げる国生みの神話がある。ところがその際、まず初めに女性神のイザナミが先に声をかけて交わった結果、蛭子が誕生したので葦船に乗せて流すというくだりがある。この部分はこの島で書かれた書物の中で最初に男性優位思想と障害者差別が示されたものとなっている。
天皇神話が、男性優位思想と障害者差別から始まっていることは象徴的である。この二点は国家が軍事的な性格を強める際に強まる。明治以降の大日本帝国もそうだが、ナチスドイツの誤った優勢思想に基づく障害者大量虐殺もその最たるものだった。
このあと男女二神は協力して島々を生んでいく。しかし、王権につながる三貴神は、イザナミの死後、イザナギが独りで生み出す。島や自然の諸力を生み出す原理は両性の交わりの豊饒性だが、王権を生み出すのは男性神の単独の力なのである。
と、ジェンダーの視点からの古事記論はえんえんと続く。本来土着の女神だったはずのアマテラスについてや、この島最初のストリップ・ダンサーのアメノウズメについてなどキリがない。
物語のはじめの祖とされる『竹取物語』では、かぐや姫が、どのような好条件の求婚をも断り続ける。五人の貴公子、そして時の帝の求婚をも断って、かぐや姫がひたすら顔を向けているのは、自らの出自である「月」の方向である。すなわち、魂の宇宙的な源である。
なんだか、とってもフェミニンな(?)お話である。地上の権威を握っている男たちになど、ちっとも惑わされない女の話が、この島最古の物語であることは、ちょっと痛快な感じもする。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と言って、女文字であるひらがなで日記を書いたのは紀貫之だ。『土佐日記』は、今風にいえば、ネカマ(ネットオカマ)によるブログである。
漢字ひらがな混じり文の、いわゆる「日本文学」を男も書くようになったのが紀貫之からだとすると、すべての「日本文学」はトランスジェンダー文学なのである。
百人一首にも採られて有名な貫之の歌「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」は、詞書きにある「かくさだかになんやどりはある」という恨み節から見るにつけても、艶めいた恋の歌以外の何ものでもない。
ところが一方、「かの家のあるじ」とあるからには、ここでの貫之の相手は男である。紀貫之はバイセクシャルだったのか。