(1) 鈍き刀と醒めかえった意識 その1
小林秀雄は「よき細工は少し鈍き刀を使ふ」という兼好の言葉を引いて、 「彼(兼好)は利きすぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分のことを言っているのである。」と言う。
「物が見えすぎる目をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。」というのである。
ただ困ったことに、兼好の鈍き刀で掘られた文体を、鈍いままになぞることしかできなければ、僕らは単なる、よくできた 「雑感集」に出会うだけだ。
そんなものはそこらへんに転がっているし、現代の作家だって書いている。しかし小林は、兼好は清少納言にも、鴨長明にも似ていない、空前絶後だと言う。
ではどのような点において空前絶後なのか。
それは、 「見る」 ことに於いてである。
「観る」と書いた方がいいかもしれない。
いや、 「止観」という仏教用語が、意味の上では最も正確かもしれない。
止めて、観る。何が止まるのか。
思考が止まるのである。
判断が止まるのである。
夢が、思いが、すべての囚われが止まるのである。
そしてただ「観る」 のである。
それが、有名な『徒然草』冒頭で語られる「境地」 だ。
しかし、兼好は鈍き刀を用いる。
彼はこれを「境地」 であるかのように、語らず、まるで自分はただの怠け者だと言わんばかりだ。
事実、そのとおり。
古来、この道を歩む者は例外なく怠け者である。
つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
完壁な文体であるが、敢えて意訳してみよう。
あるがままに身をゆだね、日は暮れてゆく。
「つれづれなるままに」という語の訳し方いかんで、その人の『徒然草』観が窺い知れると言えるかもしれない。
僕自身なかなか、ぴったりと来る語を見つけることができなかった。意外なことにヒントになったのは英語で書かれた歌詞であった。
ビートルズのLet it be である。
あるがままに身をゆだね
兼好は草庵に独り在って、何に心を惑わせるでもなく、ただただ存在に身をまかせているのである。
この訳ではニュアンスが出にくいのは、さびしいくらいに透きとおった兼好の心境だろうか。
日は暮れてゆく。
日暮らし(一日中)という言葉はもともと、日が上り、日が暮れてゆくところから来たものだ。
(「暮らし」という言葉と Life (生活)という英語を比べてみると、日本と西欧との文化の違いが窺えて、興味深い。
Lifeが「生きる」という人間の主体性に焦点のあたった言葉であるのに対し、 「暮らし」というのは太陽が暮れていくのであって、人間の側のことではない。
ただただ日々、自然がめぐっていくのであって、人はその自然の中に在るだけなのである。
あるがままに身をゆだね、日は暮れていく。 硯に向かって気を静め、
「硯に向かひて」 のところでは、硯に向かうという行為が、 自分自身と向き合い、静かに自分の中に入っていくという意味を持っていることを押えておきたい。
心の鏡(青空)に映っては、移っていく雲のような思いを、
「心にうつりゆく」 の 「うつり」は「移る」とも「映る」とも取れる。おそらくはその両方の意味を含んだ用法であるとするのが、適切なのではないか。
古来、仏教の世界では「心」は「鏡」にも「青空」にも喩えられる。
「鏡」はさまざまな物を差別なくそのまま映す。
けれども、鏡自体はそのなにものにも染まらない。
鏡の前から物が去ってしまえば、 一瞬たりとも、影は鏡の上に残ることはできない。
鏡はすでにまた、別の物を何の差別もなく映しているだけだ。
心もまた、さまざまな思考や感情を宿す。
ところがそのひとつひとつの思考や感情は、心そのものではない。
ひとつの考えが去って行っても、心はやはり、ある。
けれども、その時新しく心に宿っている考えもやっぱり心そのものではない。
心はすべての考えの背後にあって、ただ黙って、来ては去っていく考えを映しだしている鏡のようなものだ。
あるいは、来ては去っていく雲を浮かべながらも、その背後に変わらず在る青空のようなものだ。
なにものも拒まず、なにものにも染まらない。
「よしなしごと」は心に映り、移っていく。
また別の 「よしなしごと」が心に映り、移っていく。
では心そのものとはいったい何なのだろう。
そのことに思いを馳せるならば、兼好ならずとも、気が狂いそうになる。心とは何か。
「私」とはいったい誰なのか。
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「よしなしごと」とは「由」 つまり「理由や根拠」がないことだ。
ふつう、 「とりとめもないこと」などと訳される。
「心に映っては、移っていくとりとめもないことを」どいうふうに。
けれども、兼好は「とりとめのないこと」と「根拠のある大切なこと」とがあると考えていたのではない。
そうではなくて、 兼好にとっては、心に浮かぶことはすべて 「とりとめもない」 のだ。
「よしなしごと」なのだ。
ここには「この世のすべては夢のようなものだ」とする仏教的な考え方が、濃く影を落としている。
(2)鈍き刀と醒めかえった意識 その2
「そこはかとなく書きつくれば」
ただそのままに、書きつけていると、
「そこはかとなく」というのは、 「どれがいい考えだ、どれが悪い考えだなどと判断したり選びとったりすることなく、ただそのままに」ということだ。
「書きつく」というのは書く前のありのままに観てとるというプロセスを含んでいる。
そのままに観てとったものを、そのままに書く。
そこには、非常に研ぎ澄まされた醒めた意識を必要とする。
英語で「Awareness」 という。
「覚」という漢字があてはまる。
「覚」からは覚えるという意味も派生したが、記憶するという意味よりも、もともとは、その瞬間に起こっていることを、その瞬間にはっきりと観てとっている。
目覚めているという意味である。
兼好は一日中、ぼーっと考えていたのではない。
まるっきり違う。
彼は、どんな思いが心に浮かぼうと、はっきりとそれを見定め続けたのだ。
一日中、ぎりぎりいっばい目覚め続けたのだ。
ほんとうの意味での止観、禅、眼想を一日中続けていたとも言える。
「硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、 そこはかとなく書きつく」
これが彼の止観、禅、眼想なのである。
「あやしうこそものぐるほしけれ」
妙に冴えかえって、狂ってしまうのだ。
「あやし」とは通常でない、異常な意識の状態を指している。
しかし、何が正常で何が異常なのかは定義によって異なる。
もし、ふだんの僕らの意識の状態が、思いに囚われ、その背後の透きとおった青空のような心に気がつかず、完全に迷いの中にあるのだとしたら、
ここで 「あやし」と言われ、「狂っている」 と言われる心の状態こそが、むしろ「超正気」なのかもしれない。
僕らの日常の意識から見れば「狂っている」と見える意識のありようが、実はブッダ(目覚めし者)の悟りに、非常に近いものであるかも知れないのだ。
『徒然草』全編はこのような「超正気」 の境地で書かれた、
ただし 「鈍き刀」を用いてあまりに冴えかえった意識を日常の意識レベルと和解させながら書かれた、
空前絶後の 「雑感集」 である。
(3) 教訓ではなく悲しみ
およそ文学作品の読み方として、ひとつの作品から何らかの教訓を引き出してそれで足れりとするような読み方は、もっとも初歩的なものに属する。
いや、はっきり言うならばそれでは全然読んだことにならないのである。
あるいは、それで読んだことになるような作品は、もともと文学とは呼べるようなものではなかったということになる。
しかし、日本の随筆の中でも屈指のものとされる『徒然草』 を読む時の私たちの態度はこの点において甚だ暖昧である。
しばしば私たちはひとつの章段から、ひとつの教訓を引き出して安心してしまいがちである。
そして何かを学んだという、小さな満足感と共に、鑑賞を完結させてしまう。
それでは『徒然草』 は文学作品としてその程度のものなのだろうか。
たとえば、有名な第五十二段、仁和寺の法師の話を見てみよう。
仁和寺の法師は御室から岩清水八幡宮まで、わざわざ徒歩で訪ねる。
しかし山のふもとの付属的な社だけを見て、これが本社だと思い込み、帰ってしまうわけである。
そして仲間にこのように述懐する。
「聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。 そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」
ここで急転直下、兼好は「少しのことにも先達はあらまほしき事なり」と教訓めいたことを言って、章を閉じてしまう。
ここで我々は「ああ、このことが言いたかったのか。」と安心してしまう。
この作品の鑑賞に「けり」をつけてしまう。
教訓を見いだして、感じることをやめてしまう。
ところが、よく注意して読んでみると、兼好は「先達はあらまほしき」というコメントを、ひとつの教訓として呈示し、この事件に 「けり」をつけようとしたのではない。
微妙な言葉に注目してみてほしい。
「先達」はあくまでも「あらまほしき」 ものである。
常々あるとは限らないものであり、現にこの場合はなかったのである。
そしてまた、持とうとして必ず持てるよ うなものでもあるまい。
兼好は教訓として「先達を持て」と言っているのではない。
「あらまほしき」ものだが、しばしば「ない」ままに生きていかなければならないのが、生だということを見つめているだけなのである。
ここで最も肝要なことは、法師を見つめる兼好の眼差しのありように気づくことなのである。
兼好は慈愛に満ちた目で、法師を見つめている。
山のふもとの小さな社屋だけを見て、帰途に着く彼の背中。
もう一生、本物の八幡宮を見ることもなく、死んでいくのかもしれない。
その背中を見つめる兼好のこっけいなほどかなしい(あるいはかなしいほどこっけいな)思いを、そのまま受け取れば、読者はそれでいいのである。
我々は知らず知らずのうちに、教訓の蓄積によって人生の問題はすべて解決しうるという幻想の中に生きている。
そのような態度でいる限り、読者はこの章に描かれる仁和寺の法師を、 いつのまにか見下してしまう。
教訓さえ知っていれば、避けることのできた失敗をおかした愚か者ということになるからだ。
だが、兼好は、法師をけっして見下してはいない。兼好はただ 「このよ うにして人は生きて死んでいく」 ということを言っているだけだ。
(4) 油断と覚醒
「高名の木登り」という章段(百九段)がある。
木登りの名人と呼ばれた男が、 「あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ったという。
「なるほど、人は『もう大丈夫だ』と思ったとたん、思わぬ落とし穴に陥りやすい。よし、これからは気をつけよう。」
そんな風に読者はわかってしまい、安心してしまう。
ところが実は、そんな風にわかってしまい、安心してしまうこと自体が、 「あやまちは、安き所になりて、必ず仕る」 の例ではあるまいか。
人は、わからないことがある時、油断することができない。
わからないことがあるならば、覚めていなければならない。
見ていなければならない。
聞いていなければならない。
すべての感覚を研ぎすませていなければならない。
すべてに覚醒をいき渡らせていなければならない。
人は自動機械のようになることはできない。
生き生きとぎりぎりいっぱい生きていなければならない。
ところがわかってしまう(と思い込む)と、人は目をつぶる。
もう感じなくなる。
自分でわざわざ感覚をはりめぐらさなくても大丈夫だ。
さて、木登りの達人という人がいるとしたなら、その人は「あやまちは、安き所になりて、必ず仕つる」という教訓を持ち歩いているだろうか。
いや、そんなことはあるまい。
実の所、彼は「安い」だとか「難い」だとかはちっとも考えてなどいないはずである。
そうではなくて彼はただ目覚めている。
対象にはかかわりなく、彼は自分自身に目覚めている。
自分の体のすみずみまで意識がゆき渡っている。
自分に意識がゆき渡っているから、自分の置かれている状況にも意識が届いている。
いや、 もっと正確には彼は自分と対象を区別していない。
ただ覚醒している。
すべてを感じている。
それに対して、我々はどうだろうか。
さすがの我々も、 「めくるめき、枝危うき」事態に直面した時にだけは、すべての感覚を全開にし、生き生きと完全に目覚めることもあるかもしれない。
しかし、いつも対象を差別し、チャンスさえあれば見くびり、覚醒を放棄しようとしている。
その結果、生涯のほとんどを、寝ぼけて過ごす。
兼好は、そういう人間のどうしようもない性のようなものを、ここに描いているのである。
「高名の木登り」という章は、 「怪我などしないように」というおせっかいから、ひとつの教訓を与えていると考えるのは、 筋違いである。
ここで、兼好が見つめているのは、我々の 「対象を差別し、覚醒を放棄しようとする性向(業)」そのものである。
そして兼好は、ひとたびこのことを見つめ、描いたからといって、 「この件に関してはこれで解決した」などとは思っていない。
むしろまた必ず寝ぼけて木から落ちるだろうと思っている。
兼好は人間が覚醒し、それを維持する(悟りを開く)ということに関しては、ほとんど絶望しているといっていい。
「あやまちは、安き所になりて、必ず仕つる」とは、実のところ、ひとつの絶望の表明でさえある。
これは無限の落とし穴の続くパラドックスである。
なぜなら、この章の最初でも指摘したように、 「あやまちは、安き所になりて、必ず仕つる」と 「わかった」と思うことが、すなわち「安き所」 に立っていることだからだ。
出口と思った扉から、同じ穴に陥る。
そういうとんでもない業の中に、からめとられている人間。
兼好の眼はそういう恐ろしい認識にまで達している。
ではいったい、人間はこのパラドックスから、どのようにして抜け出すことができるというのだろうか?
(5)業の否定によって業に絡め取られていく姿
人の心の内側ではいつも、思考という怪物が、凄まじい速さで走り経巡っている。
だが、充分に落ち着いた静かな目で見るならば、あたかもスローモーション・ビデオを見るように、人はその思考の軌跡を見定めることができるかもしれない。
たとえば次の一節は、兼好の炯眼が見定めた、人の心のめまぐるしい動きのひとつの軌跡である。
「公世の二位のせうとに良覚僧正と聞こえしは、極めて腹悪しき人なりけり。
坊の傍に、大なる榎の木のありければ、人、「榎木の僧正」とぞ、言ひける。
この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。
その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。
いよいよ腹立ちて、きりくひを掘りすてたりければ、その跡、大きなる堀
にてありければ、「堀池の僧正」とぞ言ひける」 (『徒然草』四五段)
「榎木の僧正などという名前はいけない。私は良覚(良い覚醒!)僧正だ」と慌ててその名を否定する。
否定して榎木を切り落としてしまう。
ところが、否定された業(カルマ)は、その根を残しており、さらに強く僧正に襲いかかる。
そもそも業とは否定してしまったものの逆襲を言う。
認め、受け入れられた業はその場で消えてしまうのだから。
さて、「きりくひの僧正」と呼ばれた男は、ますます猛り狂い、根っ子まで引っこ抜いてしまう。
だが、いくらあがいたところで、あがけばあがくほど、人は業の網に絡め取られてしまう。
・・・・・男は「堀池の僧正」と呼ばれるに至る。
これで終わりではない。
この「否定」と「しっぺ返し」の堂々巡りは、ますます角度を上げて回転し続ける。
際限がない。
これが「輪廻」あるいは「流転」と呼ばれる、私たちの人生の実相ではないだろうか。
兼好は、この「流転する心の姿」を、幾分間延びした戯画として描き出してくれている。
私たちの凡庸な目にも止まるように、あらかじめスローモーションで映写してくれているのである。
実際にはこの「心の流転」は一刹那のうちにも数えきれないほどの輪を描き続けている。
私たちは、自らが、いつ、どのようにして事実を直視することを避け、言い訳を考え、しっぺ返しを喰らい、またそこから逃げるための工作をしているのか、一向に気づかないままでいる。
私たちの世界は、光よりも速く走る思考の描きだす無限の綾として、瞬時に成り立ち、瞬時に消え、また瞬時に成り立っている。
私たちの眼にはその実相を捉えることは到底できない。
見つめすぎて「あやしうこそものぐるほしけれ」となることを畏れ、日常の所作のうちにとりまぎれてしまうのが常である。
しかし、この「一刹那のうちの自己逃避」をそのままにしておくことを許さない「道」が、古来この数多く存在する。
(6)弓術の極意 そして 永遠の今ここ
しかし、この「一刹那のうちの自己逃避」をそのまま ておくことを許さない「道」が古来この地には数多く存在する。
たとえば「弓術」と呼ばれる「道」の師匠は、自己逃避する弟子をつかまえて次のように言う。
「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度得失なく、この一矢に定むべしと思へ」(『徒然草』九二段)
「弓術の初心者は、二つの矢を持つべきではない。『次がある』という思いが心に隙をつくり、始めの矢にすべてをそそぎこむことができないからである。いいか、いつも今個々があるだけだ。『当たる』『当たらない』さえ思いわずらうな。今この一矢に死して、今この一矢に生きよ」
この言葉は恐ろしいほど透徹した、ひとつの視野から発せられている。その点を兼好は次のようにコメントしている。
「わずかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の個々と、みずから知らずといへども、師これを知る」
始めの矢をおろそかにしようと思ってするのではない。自らにそのつもりはなくとも、そこに一筋の思考でも動く限り、それは未だ、今ここに徹していない「懈怠の心」なのである。
「道」を歩むすべてのものが求めている真実(サット)=覚醒(チット)=至福(アーナンダ)は、実はつねに端的に今ここに在る。
というより初めからこの宇宙にはサッチタナンダ以外の何ものもないのである。
しかし、今ここではなく、いつかどこかにそれを期待する心が法を取り逃し続ける。
今ではなく次の瞬間に。また今ではなく次の瞬間に。
際限もなく、今ここにあるサッチタナンダから遁走し続ける。
「流転」である。
自らは気づいてすらいない。ただ師と呼ばれる者の眼にのみ、そのことが悲しいほどに見えているのである。
しかし、兼好はここで「法を取り逃すな。つかまえろ」とは言わない。
「つかまえよう」とすることはまたしてもひとつの遁走であることに過ぎないからだ。彼はただ、次のように詠嘆するのみである。
「何ぞ、ただ今の一念において、直ちにすることの甚だ難き。
「時間を大切に」などという処世訓を述べたものではない。思考が、今ここに踊るあるがままのサッチタナンダから、常に遁走し続け、際限がないことへの深い嘆きが彼を襲っているのである。
しかし、兼好はここでただ弱音を吐いているのであろうか。
いや、兼好は確かにけっして止まることを知らず走り続ける思考の愚かさを、眼を背けることなく直視したのである。
直視(み)たからこそ、自らの意志と力で、その思考の動きを止めることなどまったく不可能であることに目覚め、深く絶望したのである。
そして実はその絶望の透徹した瞬間にこそ、いつか・どこかを求め続けてきたすべての思考は解き放たれて終わる。
その時、人は初めからありのままに輝いていたすべての命に連なる。
今ここからの遁走が終わり、「永遠の今」に還るのである。
兼好の眼は、あまりにも見え過ぎる眼であった。
見え過ぎるからこそ、この世に束の間生きて死んでいくすべての人々、自分の心の尻尾を追って流転していくすべての人々(自らも含めて)を慈しんでやまなかったのだと思う。 (了)