山田二三夫さんが、おそらく「超簡単訳 歎異抄・般若心経」のp25からp29のあたりの(唯円の書き留めた)親鸞の言葉づかいについての私の考えを読まれてのことと思いますが、facebookのコメント欄に次のように書いてくださいました。
(以下引用)
「いかなる振る舞ひもすべし」の解釈、長澤さんの説に全面的に同意します。「べし」には普遍的原理のニュアンスが有ります。「輩」のニュアンスを同朋と教えられました。私は学校に上がった頃、「お前は何をしたいのだ」の質問に答えられない自分を知りました。全学連の武井昭夫も、不破哲三も軍国少年だったそうです。時代が転変しても、脚光を浴びる境涯は天性のようです。私に欠けているものを備えている。だから私は白樺派の「無償の奉仕」に救いを見つけました。その延長上に私の戦後があります。
(引用終わり)
この件に関しては、著書の文章とは別に改めて書いてみたことがあるので、ここに貼ります。
歎異抄訳の問題点 長澤靖浩
従来の歎異抄訳には、様々な問題点があるが、以下に典型的な点をあげて、検討してみたい。
本文(第13条より)
またうみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野山に鹿をかり、鳥を取りて、命をつぐ【ともがら】も、商いをし、田畠(でんぱた)をつくりてすぐるひとも、ただおなじ【こと】なりと。
さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに・・・
梅原猛訳 講談社文庫
また、海や川に網を引き、釣りをして魚をとって世を渡る人々も、野や山に獣を追い、鳥を殺して命をつなぐ【人々】も、商いをしたり田畑を耕して生活をしている人々もみんな同じ【人間】であります。
ふと何か暗い運命に左右されるとき、どんな悪業でも平気でするのが人間ではないかと、親鸞聖人もおっしゃいましたのに・・・
梅原真隆訳 角川文庫
また聖人は「海や河に網をひき釣をして渡世するものも、野山を駆けまわって獣を狩り、鳥を捕らえて生計(くらし)をたてる【徒輩(やから)】も、商売をしたり、田畠をつくってその日を過ごす人も、みな同じ【宿業によること】である。どうしてもそうしなければならない業縁がひとたび催してくれば、どんなおそろしいふるまいでもするものである」と仰せられたことである。
金子大栄校訂 岩波文庫
我らは、その日その日の生業(なりわい)のほかに、何事もできぬものである。またその【生業のためには】いかなる振舞もするものである。
長澤靖浩訳 銀河書籍
また
「海や川に網を引いて、釣りをして世の中を渡っている人も、野山で獣を狩り、鳥を獲って命をつないでいる【仲間たち】も、商いをしたり、農業をしたりして過ごしている人も皆同じ【こと】です。
しかるべき業や縁があれば、人はどんな振舞いでもするものなのです」
と親鸞聖人はおっしゃっていました。
【 】は注目してほしい点に長澤が付した記号である。
岩波文庫金子大栄の「歎異抄」は校注であって、現代語訳ではない。よって横並びにすることはできないが、一見してわかるのは、金子大栄の解説は最も意味が限定的で、言っていることが浅いことである。
ここで問題にされているのは、「生業」という「業縁」だけであって、すべての業、すべての縁の中にある実存というものは、とらえられていない。卑近な言い方をしてしまえば、「仕事だから仕方ない」ということにしかならない。これでは仏法についてまったくお粗末な解説というほかないであろう。
「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」という言葉は、いかに仏教の根源に関わるものであるかについては、おいおい述べていく。
次に少し、詳しく中身に立ち入っていく。
まず、重要な点は、親鸞は空海の主著である「遍照発輝性霊集」の第一巻「野陸州に贈る歌」にある次の漢詩を踏まえているに違いないことである。
「歎異抄」にはほかにも空海の即身成仏の思想の批判がある。唯円が書き留め編集した親鸞の言葉の意図のひとつは空海の自力の仏教、鎮護国家、蝦夷差別の仏教を批判することにあったということができる。
性霊集で空海は蝦夷について言う。(長澤訳)
「田を作らず、織物もせず、鹿を追いかけ、夜も昼も山谷で遊んでいる。鬼の類いであって人のともがら(仲間)ではない」
ここで空海が「人のともがらではない」と言った蝦夷を、親鸞はあえて「野山に鹿をかり、鳥を取りて、命をつぐ【ともがら】」と言ったことが重要である。
空海が「鹿を追いかけ、人のともがらではない」と言った存在を、親鸞はあえて「ともがら」と呼んだ。漁師を「もの」、商売や農業をする人々を「ひと」とニュートラルに呼んだことに比べても、最も親しみをこめて、「仲間」と呼びかけたのである。
うがって言えば、ここには、先住民たる蝦夷こそが救済の正機であるという思想が見られる。親鸞の悪人正機の思想を社会的構造において見れば、それは鬼として差別される立場であった蝦夷こそが、救済の正機であるという思想であったという側面があるのである。
したがって、親鸞が「ともがら」と言ったものを、他の生業のものと同様にニュートラルに「人々」と訳した梅原猛訳は、親鸞の言葉づかいへの繊細さに欠ける。親鸞の逆転の発想に気がついていない訳であるというほかないであろう。
もっとひどいのは梅原真隆訳である。ここでは、【ともがら】は【【徒輩(やから)】と訳されている。やからとは、どちらかというと蔑んでいう言葉であって、親鸞の意図が活かされないばかりか、空海の方向へ後退してしまっている。
とはいえ、以上の点は、言葉の繊細さに欠ける訳であるということであって、誤訳とまでは言えない。
だが、次の点は明らかな誤訳である。
「ただおなじ【こと】なり」と親鸞が言った言葉を梅原猛は「みんな同じ【人間】であります」と訳している。
私は長い間、中高の国語の教師をしていた。今仮りに、この【こと】に傍線を引き、【こと】に当たる部分を文中より抜き出しなさいというテスト問題を作ったとする。
正解は「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」である。
そのような「もの」「ともがら」「ひと」は、「しかるべき業や縁があれば、人はどんな振舞いでもするものなのです」という点において同じなのだという文章なのである。
もしも、この【こと】を【ひと】と答えるなら、それは誤読である。よって、「みんな同じ【人間】であります」という梅原猛訳は、中高生でもおかしてはならぬ国語的なミスをおかした誤訳である。
その点については、梅原真隆訳の方がマシである。「みな同じ【宿業によること】である。」と訳していて、「同じ【人間】とは訳していない。しかし、日本語としては、「同じ」が「宿業」を連体修飾している点に不正確さがある。それは「同じ宿業」によるものではない。別々の業と縁によるものである。だから、せめて「同じ【ように】、宿業によるものなのである」と訳さなければいけない。「同じ宿業」なのではなく、「宿業による」という点が同じだというのだから。
そして、いずれにしろ、業と縁を「生業」としかとらえていない金子校注のお粗末さは話にならない。
さて、以上を踏まえた上で、私が一番言いたいことは、以下である。
親鸞は業や縁によって「どんな振舞いでもするものなのです」(長澤靖浩訳)と言った。
「どんな悪業でも平気でする」(梅原猛訳)、「どんなおそろしいふるまいでもする」(梅原真隆訳)などというネガティブな言葉はここに挟んでいない。
はっきり言ってしまえば、ここで親鸞が悪業について述べているとするのは、これら訳者の思い込みである。もっと言えば、これでは訳者の恣意的な訳としての「超訳」である。
意外にも、この中で、私の「超簡単訳」だけが、「超訳」ではない。
親鸞が
「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と言ったものを
「しかるべき業や縁があれば、人はどんな振舞いでもするものなのです」とそのままニュートラルに訳してある。
善いことをするとも、悪いことをするとも言っていない。
実はこれは「空」の思想のちょうど裏面である。
同じことと言ってもいいが、ちょうど裏側から述べているという風にも言える。
すべての存在は、業と縁の中にあって生起する。
「縁起生空」である。
仏陀の悟りの根本的な内容そのままである。
「般若心経」の思想そのままと言ってもいい。
ジョン・レノンはそれを「インスタント・カルマ」という歌の中で
「瞬間のカルマがあなたをとらえる」と歌った。
覚和歌子は「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」で
「生きている不思議 死んでいく不思議
花も 風も 街も みんな同じ」と詩に造型した。
この「街も」というところが詩としては、極めて優れていると感じる。
自然存在だけではなく、人の営みを含む世界のすべてが、「縁起生空」であると感じられるからだ。
私は何度か述べたように、臨死体験において宇宙のすべてに浸透する覚醒そのものとなった。
だが、業と縁があって、この身体に戻ってきた。
親鸞は、漁師も蝦夷も商人も百姓も業と縁によって、実存すると言った。
業と縁によってそのように実存することにおいて「ただ同じことなり」と言った。
覚和歌子は、業と縁によって、「花になり、風になり、街になる。
みんな同じ」と言った。
「歎異抄」が人間存在が生きてある限りにおいて深い業の中にあることを見つめる書であることには間違いはない。
しかし、浄土真宗の歴史の中で、それは罪の意識とともに語られすぎたのではないかと私は思っている。
ゆえに見てきたように、ニュートラルな訳を捨ててしまい、親鸞が言っていない「おそろしいこと」「悪業」などという言葉をわざわざ加えて訳してしまうのだ。
親鸞はニュートラルに真実を語っただけである。