安藤泰至(あんどうやすのり)『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』読了
心肺停止13分間の際に臨死体験をした私に言わせれば、この本は死について語る本ではまったくない。生について語る本である。
もし、一文でまとめるなら、この本に書いてあることは、
生きるに値する命と、生きるに値しない命という考えはいったいどこから来ているのかよく自覚する必要がある。
以上である。
よい意味でも悪い意味でも、それ以上のことは書いていなくて、安楽死・尊厳死への賛成や反対もはっきりとは書いていない。
生きるに値しない命という考えのどこかに何かの勘違いがないか?という問いはかなり強いので、どちらかというと安楽死・尊厳死について反対にやや傾いているように感じられはするが、その意見を言うために書いたものではないと感じた。
安楽死・尊厳死について考えるならば、その前に「生きるに値しない命」という考え方は、どのようにして発生するのかについて、よく自覚し、観察しておかねばならぬのではないか。
そう書いてあるだけである。
それはたとえば、比較的健康な今の自分が、痴呆のために自分がわからなくなったり、病や障碍による機能不全のために殆ど何もできなくなった際の自分に対して、前もって「投影している」考えではないか。
そう安藤氏は個々に問いかける。
またどのような状態の自分になったとしても、生きるに値すると感じ続けるための援助や社会的手立てが、十分に整っていなかったり、そのような援助を受けるための情報を十分に得ていないときの考えではないか。
そのように社会的にも問いかける。
この二つは別の側面ではあるが、まったく別々のことであるわけではない。
個人的な価値観と社会的な価値観はどのような事柄についても密接に繋がっている。
「生きるに値する命」という考えについても同様である。
この本の前書きはナチスドイツで作成されたことのある安楽死についての法案の条文で始まっている。
一方、今の日本の政権は、ナチスを見習えばいいと公言したことのある閣僚を抱えている。
いや政権だけではなく、人々の生に関する考え方はどうなのだろうか。
有能であること、役に立つこと、周囲に「迷惑」をかけないことへの圧力は、異様に高まっており、それはまた自分自身の心にまで内面化されていないだろうか。
「生きるに値する命」と「生きるに値しない命」の境界線はいったいどこにあるのか。
いや、「生きるに値しない命」というものがそもそもあるのか。
人は死という究極の現実についてまで、自己決定権という言葉をたやすく使ってしまうことがある。
しかし、それはどのような価値観の社会の中で内面化された「自己決定」なのか。
そのことはけっして無視することができない。
「死ぬか植物人間です」と医師に宣告されてから10日後、私は、自発呼吸と意識を取り戻した。
その際の私は、常に激しい痙攣に見舞われ、幻と現実の間をさまよい続けていた。
たくさんの医療器具に繋がれ、その医療器具を自分で引きちぎらないようにするための拘束具によって、ベッドに縛り付けられていた。
だが、私には生きる意志があった。
「この拘束具を外しなさい。虐待で告訴する」と医療関係者に言い続けた。(^0^)
(数日間の攻防の末、取り外された。)
友人からの最初の見舞い品は録音機だった。
その録音機に私が最初に吹き込んだ声は「臨死体験ですべてがわかった。それを録音するから書き起こしてくれ」というものだった。
手指が動くようになるとすぐに私は宇宙がどのような構造で成り立っているかについての、臨死体験における理解をミミズが這いずり回ったような字で書き始めた。
(残念ながらその「お筆先」は通常の意識状態にもどった私には解読不能である。)
やがて私はパソコンで文字を打てるようになり、病院で小説を書き始めた。
退院後の6年間に3冊の書物を発表し、過去の書物の改訂増補版を作った。
私が意識不明のとき、家族は問われていた。
口腔からの人工呼吸器は感染症に罹りやすい。
植物状態になることを覚悟して、気道切開し、そこから人工呼吸器に繋いで延命をはかりますか?
家族が決断の期限を迎える頃、死体のようだった私の体が激しい痙攣を始めた。
家族は驚いたが、看護師が「自発呼吸を再開しようとしている兆しです」と説明したという。
そして、気道切開の決断の期限を迎える直前に私は、自発呼吸と意識を回復した。
今、考えるとよくあの状態で一度も「死んだ方がよかった」と思わなかったもんだなと思ったりもするのだが、私は一度も死んだ方がよかったと思ったりはしなかった。
完全に病床に繋ぎ止められた状態で、権利の主張を始め、録音機に私が価値あると思った言説を呂律の回らぬ声で録音し始めた。
どこまで回復するのかは未知であったが、それを一所懸命確かめることより、その状態でできることをすぐに開始した。
(自分でもびっくりするわ)
この本を読みながら、あのときの自分を振り返って、思い出すままに書いてみたが、かく言う私にも、安楽死・尊厳死については、誰もがこう考えるべきだという結論があるわけではない。