昔のテレビ番組で「クイズ百人に聞きました」というのがあった。
これはクイズというが、客観的に正しい答をあてるのではない。
何人の人がどう答えたかを予測し、できるだけ多くの人の答を指摘することでその人数分だけの点数が入るのである。
これはクイズ番組として考えると画期的で、答は人々が決めるというものだった。
まあ、表層的な考えで言うなら、答は「民主主義的に決定」ということになるだろう。
点数がほしいと思えば、自分の癖のある??考えは一度横におかねばならない。
そして、多くの人がどう考えるかを予測するのだ。
実はそれは自分の深層意識に聞くことと呼応している。
深層意識の中にどんな思いがどのくらいの割合であるかを考えてみれば、それがどんな考えの人がどのくらいいるかの割合を当てるヒントになる。
たぶん、心理学的哲学的にはすべての考えがすべての人の中にあるが、
その中から人が自分の考えとして選び取って表に出している答が異なるだけだと言えなくもない。
だから自分の「癖」(←大事かもしれないが)のある選択をうまく脇におけば、たぶんこうだろうなというのはけっこう予測可能だったりする。
ALISの運営について思い巡らせているとき、久しぶりにこのクイズ番組のことを思い出した。
ALISの運営方法はちょっと見は、この「クイズ百人に聞きました」に似ている。
しかし、単純多数決ではない、何らかの基準がある。(たとえば、いいねの数と獲得ALISの相関も、単純でないので、なぜそうなったか、運営でないとわからない。)
それがすべて式として公開されていない。
そこが「クイズ百人に聞きました」とは異なる。
これは賢人政治と多数決の良質な融合の可能性を孕んではいる。
しかし、はすかいに見れば、多数決のふりをした独裁が可能であると言えなくもない。
しかし、逆に基準を全員に公開すれば、誰かが悪用できなくもない。
ここんところが難しいところだなあと思った。
さて、目下真っ盛りの、今回の新カテゴリー選挙について言うなら(第1フレーズの結果の知らせは今朝早くにツイッターで見たが)、僕はどう決まっても特に困ることはない。
その状況に対処して自分の新しい方針を確立するだけだからだ。
「すべては遊びだ」という言い方もできる。
しかし、また「すべては遊びだ」という言説にも危険性はないとは言えない。
独裁や偏見の隠れ蓑としても使える。
どんな事態に対しても、言い訳として使える。
どこまでいっても人間のやることには、そういうパラドックスを孕んでいる。
そういう生き物なんだと思う。
個人的には「文学にはマイナスはない」という言説が、気にいっている。
たとえば僕は心室細動で死にかけて身体障碍者となったがそうなって初めて見えてきたことがある。
そうなればそれがまた新しいモチーフとなり、文芸は無限に展開していく。
どちらにしても無限に展開していくのだ。
どちらにしても!