2007.01.17
大学生の卒論「京都のクラブ・カルチャー史」のレビューで、クラブでの一晩踊っている間のメンタルな展開を描いてほしかったと若者に向かって放言(?)してしまった。
その手前もあり、レイヴにおけるそれを語ったあびの文章を(なんと前世紀に書いた古い文章!だが)再掲しておきたい。
(以下、前世紀に書いた文章)
1999年8月23日(土)石川県白山瀬名スキー場で行われたレインボー2000のレイヴパーティーに参加した。
僕は、これまでに何度か、レイヴパーティーに参加していたが、今ひとつぴんと来るものがなかった。
また「レイヴは様々な現実的社会的問題からの逃避となりうるのでは」とも考えていた。
だが、いろいろな友人と話を交わしていると、広範な人々がレイヴに参加し、この上ない感動を得て、人生そのものが変わったという。
特に社会的な問題意識の点でとても信頼のおける友人も、レイヴをとても評価していると知って僕の心は動いた。
僕は「そんなら、レイヴって本当にいいものか、どうか。今回で見極めをつけよう」というつもりになり、この夏最大と言われるレインボー白山に参加することに決めたのだった。
会場に着くと、テクニクスガーデンの音がズンズン響いていた。
入場し、そこに集う人々のバイブレーションを浴びるだけで、だんだんハイになってきた。
会場の雰囲気を一言でいうと、そこには開放感とピースフルなエネルギーの統合があった。
解放される事によって粗野な野卑なエネルギーがあふれるのではなく、陽気でやさしさに満ちたエネルギーがあふれる。
それは、おそらく「ここで必ず楽しい事が起こる、今夜は最高の夜になる」という確信のようなものが、人々を深く満たしていて、一人一人が、思わず笑みがこぼれるような状態になってしまっているからであろう。
予定表を見ると、ゴンドラで上がった所にある「アルカディアガーデン」で知り合いの谷崎テトラさん(当時は作家。DJ。イベンター。今は京都造形美術大学教授)のアンビエントが始まるようだ。さっそく行ってみることにした。
アルカディアガーデンでは、テトラさんのアンビエントが始まっていた。
スピリチュアルな詩や般若心経の英訳版の朗読なども多様したユニークな構成だった。
さらにテトラさんは、音楽の最後にバグワン・シュリ・ラジニーシの代表的な瞑想法のひとつ、クンダリニー・メディテーションの曲の中、ダンスのための部分をかけた。
結果的には、まるまる15分、カットせずにかけたのである。
僕はこの曲で1980年代に100回くらい踊ったのである。
そしてここ10年ぐらいはこの曲で踊るのを止めていたわけだ。ところが、約10年ぶりにこの曲を聞くと、なんだか、とてもいい曲に思えてくるではないか。
そもそもバグワンの瞑想法には、ダンスを取り入れたものが、非常に多い。
これは後から整理して考えたのが、そのプーナ製のダンス曲は、エスニックな曲調と、テクノとの間の橋渡し的な役割を果たしているような気がしないでもない。
「へえ、この曲との出会い直しが僕の今回のレイヴの始まりかあ」
僕はちょっと嬉しくなって、フロアーの前方に飛び出し、踊りだした。
過去に何度も踊った曲なので、自然に体がなじみのリズムに乗っていく。
気持ちよかった。
踊り終わると近づいてきた先輩ヒッピー風の人物がいた。
SEIKAだ。
もともとシェラネバダ山脈の奥地で原始的な生活をしていた、日本のヒッピー界の大御所のひとりだ。
この頃の日本のレイヴムーブメントは、オーガナイザーが、SEIKAのアドバイスやプロデュース力に世話になることで、ディープなパーティーとして仕上がっていたものだった。
再会を歓び、ハグしあった。
それから何人かの友人と再びゴンドラに乗って下界に降り、夕食を摂った。
屋台のタイ風カレーを食べた。
タイフード独特の酸味があっておいしい。
レインボーサークルの後方にシーツを据え、夜を明かす態勢を整える。
出店を見てまわるうちに、腹もこなれてきた。
9時ごろ、僕は踊っている人々の中に入って踊り始めた。
9時頃踊り始めるというのは、今からずっと踊るにしては少し早すぎるくらいだ。
ビートがずんずん腹を打つのに乗っていくうち、心身が開いてくる。
周りで踊っている若い人たちと同じリズムに乗っているのが、嬉しかった。
何というのだろう、このようにして若い人たちが、踊るということを連綿と受け継いでくれているのが、嬉しかったのかもしれない。
……さて、ここから始まったプロセスを、後から振返ってみたとき、この夜僕に起こったことについて、禅定の深まりを表す「四禅」のモデルが、ぴたりと当てはまるように思えた。
一方、踊ることの快楽については、既に色々な人が語ってきたと思うが、禅定との対応において語った人はまだいないように思う。
そこで、ここでは、レイヴにおけるダンスのプロセスと「四禅」のモデルとを対応させながら、心身の変容について考察することを試みてみたい。
あるいは、本物の禅の僧侶からは、お叱りを受けるかもしれないが、一つの試論としてご容赦ねがいたい。
禅定の深まりを表す四禅を簡単に図示すると、次のようになる。
初禅 尋 伺 喜 楽
二禅 …………喜 楽
三禅 …………… 楽
四禅 …………………
初禅
踊りはじめた僕は、最初のうち、確かに初禅の境地にいたと思う。
ビートに乗るとすぐに「喜」「楽」が生じてきたが、同時に心には様々な揺れがあった。
つまり「尋」「伺」があった。
「尋」とは、手元の法蔵館「仏教学辞典」によると、「ものごと(特に言葉の意味など)をたずね求めておしはかること」とある。
つまり、言葉によって物事を探求しようとする働きである。
僕は最初のうち、踊りながら色々なことを考えていた。
レイヴの意味や、今ここに僕が来た由来や理由、いったいこれは何なのか、ここで僕は何をしているのか、いったい僕は何を持って帰ることができるのか……頭の中はけっこう忙しいのである。
ところが一方、体の方はというと確実に音におかされ、「喜」「楽」を感じはじめている。
ビートや電子音の中で高まりつつ集中し、自律的に躍動している心身がある。
つまりある意味ですでに「定(三昧)」つまり心身の統一的な状態が、開かれ始めているのである。
やがて僕の中の「尋」の働きは、徐々に「伺」のレベルに移行していく。
「尋」と「伺」が、交じり合ってはいるが、「伺」の比重が重くなってくるのである。
「伺」とは、仏教学辞典には「ものごとを細深に伺察し思惟する精神作用」とある。
つまり、「尋」が日常様々な言葉による考察の域を殆ど出ないのに対して、同じく言葉を用いた観察でありながらも、そういう自分の深層に横たわっているものが徐々に顕わになってくるのである。
ふだんは気がつかないでいる、自分の中の恐れや不安、深層の動機、過去のトラウマなど、細やかに見えてくる。
ここには、その内容は詳述しないが、何度も「ああ、そうだったのか」というように、自分自身についての気づきに見舞われ、深い吐息が漏れたり、涙ぐんだりしたのである。
このようなプロセスは二時間以上も続いたであろうか。
それでも踊り続けるうちに、やがて言葉による内省である「尋」「伺」がどんどん消え去っていった。
心のゆらぎが消えていったと言ってもいい。
二禅
そして、その奥底から湧き上ってきたのは、まさしく「喜」「楽」であった。二禅である。
「喜」は心身の奥底から湧き上ってくるなんともいえぬ嬉しさだ。
四禅では一字で「喜」と表しているが、レイブにおける「喜」はむしろ浄土教の「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」という言葉がぴったりくるように感じる。
とにかく、うれしくてうれしくて仕方がない。
喜びに体がはじけて、自然に躍りだしてしまうのである。
実はこの「喜」は、踊り始めるとすぐに少しずつ増大し始めていたのである。だが、そこにまだ「尋」「伺」が残っているうちは、このありのままのエネルギーの勇躍である「喜」が、100パーセント表に弾け出すことが、できずにいたのである。
「尋」「伺」が滅していくのに伴って、いよいよハートから、体から溢れ出さんばかりに放出しはじめたわけである。
そのうれしさはまた、ここにいるすべての人たちが、限りなく愛しいという想いとも連なっていた。
多くの人がレイヴでの大切な体験として記述しているとおりである。
三禅
さらに踊りつづけ、未明に近づいてくると、今度はその「喜」さえも沈静化していった。
すると、その底から顕わになってきたものが、「楽」であった。
三禅である。
「楽」とは軽やかで深いやすらぎと言ったらいいであろうか。
僕の踊りは、真夜中ごろには、かなり激しい動きとなっていた。
だが、未明の2時、3時となると、徐々に体の動きはゆるやかになっていった。
そしてとうとう、腰と肩をほんの少し揺らしているだけといった状態になったのである。
それだけで十分だった。
体をほんの少し揺らしているだけで、細胞のひとつひとつが、軽やかで快いやすらぎに震えるのである。
その震えは、とても微細なゆらぎで、ほとんど「何も感じていない」と言ってもよいほどであった。
だが、ごくごく小さな鈴の音が、ほとんど聞こえないかのような軽やかさで鳴っているように、そこには透明なやすらぎが響き渡っていたとも言える。
僕が帰宅直後に書いたメモには、この時のことをこう記している。
「僕の外側の肉体の動きは、だんだんだんだん小さくなっていく。
もう激しく踊る必要なんかなかった。
踊ることによって、エネルギーの奔流を起こす必要はもう消えていた。
ただ、音に合わせてほんの少し腰を揺らしているだけで、信じられないほどの歓喜の小波が身体中で鈴を鳴らすのだ。
小さな小さな鈴だ。
信じられないほどの歓喜だけど、とても静かでもある。
どーんと歓びの嵐に持っていかれるのではなく、無数の細かな鈴が揺れるように微細なレベルで、襞の襞まで染みとおっていくようなのだ。」
そして、僕はとうとう躍るのを止めた。
体を止め、立っていたが、それでもまだ細胞の軽やかなゆらぎは、続いているようでもあった。
四禅
四禅とは、とうとうその「楽」という「やすらぎ」すらも滅し果てて、すべてなくなってただただ清浄といった境地を指す。
それを禅では「捨念清浄」と言う。
僕がこの時、この「捨念清浄」といった境地に至ったかどうかは、わからない。
一瞬、垣間みたような気もするし、少し違うようにも思う。
だが、こうして「尋」「伺」が消え「喜」「楽」だけとなり、次に「喜」も消え「楽」だけとなる、さらに「楽」さえも滅したその先に「捨念清浄」といった境地があるのだといった感触だけは、何となくわかったように思う。
……以上のように今回のレイヴでの体験は、仏教学を学び、瞑想に親しんできた僕にも非常に興味深いものとなった。
ところで、僕の最初の疑問の一つである「レイブが現実的社会的問題からの逃避となるのではないか」という問いについては、どうなったであろう。
最後にこの点について、現在の僕の考えを、とあるメイリングリストに僕が書き込んだ言葉を転記することで、記しておきたい。
>今ここの
>至福を感じれば感じるほど
>未解決の問題に焦点を合わせるパワーを
>得ることができる。
>(この二つが矛盾せず、相互性がある所がミソ)
>と思いました。
>もっと単純に言うと
>とにかく、感じることは感じるとおりに感じること
>何かを感じることが
>何かを感じないことにつながらないように
>何にも固着せずにぜんぶ感じること
>かもしれません。
>歓びも苦しみも
>愚かさも尊厳も
>至福も悲しみも
>生も死も
>ぜんぶぜんぶ