
・ キリスト教における正統と異端
「超越性」の運動が「絶対性」の固着に陥ることは、個人の意識の中で一瞬のうちにも起こりうる。それはミクロの次元における螺旋運動である。
またすこし大きな単位で見れば、それは人の一生を通じて起こりうる。
青年期に「超越性」の体験をし、そこから信仰生活に入った個が、やがてその洞察を固定化し、その「絶対性」によりかかって生きるといった現象はそれである。
またもっと大きな単位で見れば、ひとつの宗教のたどる歴史の中にも同じような現象が観察される。
ある宗教がその出発の時点では、時の地上的権威を相対化し、個々の人間を根源的に解放する運動であったにもかかわらず、やがて自らが教義を絶対化し、地上の権威として君臨しするといった現象である。
こうして人間性を解放するものであったはずの「教え」が、むじろ人間性を呪縛するといったことが起こる。社会現象としてマクロに見た場合の「超越性宗教」の「絶対性宗教」への変質である。
しかし「絶対性宗教」は、根源としての「超越性宗教」の質を聖典や教義や典礼の中に幾分かは時間的に保存し、また空間的に押し広げる。
それが「絶対性宗教」の有する意義であるということも可能である。
時には、「絶対性宗教」に触れた個人が、それらの根源的な質をもう一度発見し、超越性の運動を新たに展開することもある。
もしも「絶対性宗教」が「保存」と「拡張」の役割をまったく行わなかったとしたら、伝統の中から新たな超越性運動が生まれることもなかったかもしれない。
そう考えるならば、「絶対性宗教」の現象はアンビバレンツなものである。
ではここで具体的にキリスト教の歴史において、「絶対性宗教」という現象について観察し、考察してみよう。
個々の信仰者の内面でのミクロな螺旋運動については今は措く。
ここでは社会現象としてのキリスト教が「超越性宗教」の段階から「絶対性宗教」への段階に移行した時期を考察してみたい
。私はそれを三一三年コンスタンティヌス帝によるミラノの勅令によって迫害が終結し、三九一年テオドシウス帝による異教全面禁止に至る時期に置けるのではないかと考える。
この時期までのキリスト教はローマの権力から激しい迫害を受け続けた。
異教の神々や皇帝の像を拝んだ者、キリストを呪ったものは許されたが、それを拒否したものは、水責め、火責め、飢餓、野獣、剣、絞首刑、十字架刑などあらゆる拷問や死刑によって棄教を迫られた。
ところがローマの国教化したあとの「正統派」キリスト教は、今度は逆に自らが異端・異教と判断した者たちに対して同じことをやり始めた。
これをもって私はキリスト教の絶対性宗教化と呼ばざるをえない。
もっとも個々の信仰者の内面では、それ以前にも「絶対化」は起こっていたかもしれないし、それ以後にも「超越性運動」は更新され続けていたかもしれない。
だが、螺旋の中の無数の下位レベルの螺旋を含みながらの大きな流れの中では、確かにキリスト教はローマ国教化を経て、絶対性宗教へと変質していったというほかない。
こうして数々の「異端」が「正統派」キリスト教によって弾圧されていった。
異端とはすなわちグノーシス派、モンタヌス派、マニ教派、カタリ派、ヴァルドー派、フランチェスコ派、自由心霊派、共同生活兄弟会等々である。
これらの諸派は、個々に論ずるならば様々な問題性を有していたにしても、少なくともイエスの原像を通じて聖なるものへの直接的な回路を開き続けようとした点では、むしろ「超越性宗教」の質を保持し続ける者たちだったのである。
弾圧される側から弾圧する側へ。
立場を変えたキリスト教は、教義を確定し教会職制を確立し組織宗教としてその形を整えていく。
教義の確定という面では、具体的には、父と子と聖霊の三位一体説の完成、新約聖典の決定といった大事業があった。
三位一体説は他の一神教(たとえばイスラーム)と異なるキリスト教の大きな特徴を成している。また数々の異本の中から新約聖典を初期に決定したことは、仏教において経・律・論が限りなく増殖し続けたのと異なり、キリスト教の安定性と固定化を特徴づけている。
教会職制の確立に至る過程ではテルトゥリアヌスなどによる批判運動もあった。
彼は「三人の者が共に集まれば、平信徒であっても、教会である。ひとりびとりは『めいめいの信仰によって生きる』」とした。(『純潔の勧め』)一種の万人祭司説である。
だが、イグナティオスらは監督制を教会の分裂を避けるための最善の道と信じ、教会の大勢は彼に見かたして監督制を採用した。
そして五世紀に至ると、ローマ教会の監督レオ一世が全教会の首長として教皇制を確立した。個が直接的に神に繋がる道は閉ざされ、祭司が祭祀権を独占したのである。
こうしてイエスを通じた超越と根源的解放の運動であったものが、教義と組織の中にピンで留められたのだ。しかしそれは同時にカオスの中からコスモスを作り出すことでもあった。
生きたイエスと共にあった運動は数々の変質と固定化を経ながらも、安定した形で歴史的に保存されたのである。
「中世」と呼ばれる時代を通じて教皇権はさらに上昇し、また特定の教義の固定化は進んだ。礼拝は、初期にはそれぞれの地方語(アラム語、シリア語、ギリシャ語、コプト語、ラテン語等)で行われていたが、ラテン語が教会の公用語として用いられることになったことも、支配の一元化の一側面である。
しかし、その中ではベネディクト会などの諸修道院運動や、アッシジのフランチェスコやヴァルドー派の運動などの改革運動が数多く誕生したこともまた見逃されてはならないだろう。
絶対性宗教の歴史の中でも、超越性宗教のスピリットは形を変えて何度でも芽吹かんとする。
ところがそれらの超越性運動は、あまりに強大な絶対性宗教の前で、あるいは組織に取り込まれて鋭さを失い、あるいは組織に弾圧されて潰えていくのである。
マルティン・ルターに始まる宗教改革は、中では最も大きな改革運動であった。
信仰のみを義とするその運動は、イエスの解放運動そのものに還ったとまでは言えないが、すくなくともパウロの回心の原点に還ろうとした運動であった。
だが教皇支配を超えていこうとしたその運動も、翻ってドイツ各地の領邦国家の君主に従属にとらわれたという側面がある。
領主に抵抗した農民運動に対してルターは「奴らを叩き殺し、絞め殺し、刺し殺せ」と叫んだ。
プロテスタント運動はある面でラジカルな超越性の運動であったが、時が立つにつれ教義の絶対化に陥り、父権的な絶対性宗教としての性格をある意味ではカトリック以上に強めた。
その現れの一つとしてプロテスタントによる「魔女狩り」は、苛烈さを極めた。
だが、いずれにしても絶対性宗教としてのキリスト教の内部からは、繰り返し内部刷新と改革の運動が生まれたことは特筆に価する。
そのことは、原点としてのイエスが、固定化した権威を相対化し、超越性原理にまっすぐに繋がろうとした精神が脈々とその命脈を保っていることを示しているとは言えまいか。











