・ 「死と再生」の三態
文化人類学の隆盛と共に、世界各地の精神文化の「象徴的な構造」を比較する研究は、大変盛んになった。しかし、各種の精神文化の構造的類似性だけに着目することは、またある種の危険性もともなう。
たとえば「死と再生」という非常に基本的なタームを持ってきてみよう。
先住民文化に見られる通過儀礼(前章で見たスゥェット・ロッジ、ヴィジョン・クエストなど)に、「死と再生」の構造が見られることは明らかである。
心身の限界に近い極限的な状態の中で、個々の参加者は、古い自分を脱ぎ捨て、何らかのヴィジョンを得て、新しい自分に生まれかわる。
一方、大嘗祭における天皇霊の継承にも、「死と再生」の構造は見られる。
大嘗祭の秘儀の詳細は不明であるが、新天皇は、真床覆衾(『日本書紀』にニニギが天高原よりこれにくるまって降臨したとある)にくるまって模擬的に死に、天皇霊を付着させて再生すると考えられている。
また他方、十字架上のイエスの死と三日後の復活にも「死と再生」の構造は見られることは誰の目にも明らかである。
その類似性だけを見ると、古いシャーマニズム的な構造が、一貫していると見ることも可能であるのがわかるだろう。
歴史的な発展モデルを用いない構造主義的な観点からは、この三つは相対的な文化の違いとして、等価値に並べることもできる。
だが、背後の社会的文脈を見る時、この三つの「死と再生」は明らかに異なる思想性を有している。
先住民の通過儀礼は、部族社会のシャーマニズムにおける個的な精神的事件である。切実な個人の変容体験であり、内面次元での出来事のすべてが、その個人の人格に影響を及ぼすであろう。
神道の大嘗祭は国家宗教における支配的な祭司権の継承に関わっている。
秘儀の詳細が不明であることは、祭司権の独占という状態を象徴している。
ブラックボックスの中での秘儀において、祭司権が継承されたという結果だけが、人民に押し付けられる。
ところが、「死と再生」という構造だけに着目する見方に止まると、「神道」を各地の先住民文化と並べて再評価してしまうといった事が起こる。
これは「部族シャーマニズム」と「国家宗教」を異なる精神文化の型として見ないことから来る誤謬だと、私は考える。
個的な宗教体験としての実際の変性意識をともなう「死と再生」と、祭司権が国家権力に奪われて儀礼化した様態での「死と再生」では、精神文化としての評価の仕方が、異なってこなければならない。
また、イエスの死と復活は、国家も含む地上のすべての権威を相対化する「超越性原理」を明らかにしようというものだ。
彼の復活は、地上の権力によって「超越性原理」を破壊する事はできないという高らかな勝利の宣言なのである。
もちろん、その後の歴史でキリスト教は再び地上の権力と結びつき、史上最悪の侵略宗教と化していくのは、周知のとおりである。
だが、少なくともイエスの死と再生の時点では、地上の権力によって「差別された者」が、「超越性原理」によって蘇るといった事件であり、後にはその事件によって、すべての人の罪が贖われたとする強烈な信仰体験の象徴となっていく。
国家宗教の儀礼的な場面で演じられる「死と再生」の儀式は、国家の権威を強める働きをする。
それに対して、イエスの「死と再生」は、むしろ全ての地上的な権威を相対化する働きをする。
つまり社会的には全く逆の意味を持つにも関わらず、構造的な類似性を持って横並びに論じる事は、一つの欺瞞となるのではあるまいか。
「国家宗教」とキリスト教や仏教のような「超越性宗教」(ただし、その原点においてだけである)を、別の精神文化の型として論じなければならないゆえんである。
この三種の「死と再生」には、言うなれば「前国家的」「国家的」「超国家的」の三つの異なる文脈が認められるのである。
私は「死と再生」という構造に着目した考察が、世界のシャーマニズムの伝統を再評価するのに役立った事は、十分に認めたい。
だが、異なる文脈にある精神文化をその構造の類似性だけで評価するのは杜撰である。
・ 「日本神話」は存在するか
神野志隆光は『古事記と日本書紀 「天皇神話」の歴史』において、民族の神話としての「日本神話」があるとするのは幻想であるとして、鋭い警告を投げかけている。