出てくる映画などでわかると思うのですが、随分前に書いたものです。
パロディとしての走れメロス abhisheka
(1) パロディ概論
太宰治の「走れメロス」の先駆性は、その諧謔精神にある。
「走れメロス」はいわゆる「ヒーロー譚」のパロディである。「MR.インクレダブル」がヒーロー映画のパロディとしてのヒーローCGであるように、「魔法にかけられて」がファンタジー・アニメのパロディとしての実写ファンタジーであるように。
「MR.インクレダブル」では主人公のヒーロー一家は、ヒーローとしての動きによる被害を訴訟され、ヒーローであることの封印を余儀なくされる。
「シュレック」は「美女と野獣」のパロディであるが、ラストでは美男美女に変容するのではなく、逆に男女ともかわいいところのある化け物として再生する。
「魔法にかけられて」では、ファンタジーの国のお姫様は魔法によって現実のニューヨークに墜落してしまう。ファンタジーの常套的な構造は、現実からファンタジーの世界へ入りこみ、また現実に戻ってくるところで終わることだ。だが、この物語では構造が逆立ちしている。
このようなパロディ作品は、ディズニーだけはなく、たとえば邦画の世界でも盛んに制作されている。
北野武の「監督バンザイ」は映画というメディアそのものへのパロディであり、三谷幸喜の「ザ・マジックアワー」では現実と映画が何重にも逆転して交錯する。
パロディ作品は、あるメディアにおける表現が一通り出そろい、自由な選択肢が爛熟した時代に盛んになる。
意識がもう一段先に進むのだ。和歌の世界の本歌取りなども、広い意味でのパロディである。
おおざっぱな時代把握として、1990年代以降は1960-70年代のパロディの時代であると観察するのも一つの観方としてはおもしろい。
たとえば、ミスターチルドレンが「名もなき詩」で「あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしている」と自己分析してみせるのは、ビートルズが60年代に「レットイットビー(あるがままに)」と歌ったことを引用し、その先に進もうとしているのである。
(だが、もちろんパロディの時代にも、万葉集ばりの「ますらをぶり」は常に存在する。
ある夜、「ミュージックステーション」を見ていると、ミスターチルドレンがまたしてもごちゃごちゃ言う複雑な歌詞を披露したあとに登場したウルフルズが「ええねん」と叫ぶばかりの「ますらをぶり」を披露した。
そのあと桜井は、トータス松本に「ストレートでとてもよかったです。
おれは何をごちゃごちゃ言っているんだろうと思いました」と言い、トータスは「また飲みに行きましょう」と言ったのは、名場面だったと思う。)
ところで太宰治の先駆性である。
彼がシラーの「人質」のパロディとしての「走れメロス」を書いたのは、近代小説というメディアが爛熟とパロディ化の時代を迎えるはるか以前である。
映画というメデイアが誕生したばかりのころに、映画という表現方法自体を相対化する「監督ばんざい」や「ザ・マジックアワー」のような作品が生まれえたであろうか?
そう考えると、太宰の天才性が浮かびあがってくる。
天才性というよりは、複雑な心理を生きることしかできなかった独特の心理構造が浮かび上がってくるだけだと言えなくもないのだが。
だが、私は急いでもうひとつの観方もメモしておかなければならない。
それは近代小説というメディアの誕生そのものにかかわることなのだが、近代小説とはそもそもの初めから従来の「物語」に対して相対的な視点を取り入れることで、複雑な構造をもったものとして誕生した「パロディとしてのメディア」なのではなかったのかということなのである。
夏目漱石の「吾輩は猫である」や、芥川龍之介が「今昔物語集」を本歌取りした「羅生門」「鼻」などの短編群を思い浮かべるだけで、その意図するところはおおよそ了解していただけると思う。
たとえば俳諧というジャンルが、最初から和歌のパロディとして登場し、それが故にセンチメンタリズムを遠く離れて、禅的な大空の呵呵大笑にまで飛翔しえたように、小説というメディアは、いわゆる「物語」のパロディとしての近代意識の賜物ではないか。
それが故に初めから相対化を孕む自由で爛熟した複雑な芸術形態として出発したのではないか。
いや、パロディ概論はここまでにして、「走れメロス」の検討に移ろう。
(2)「走れメロス」の饒舌
太宰治は、小栗孝則訳のシラーの叙事詩「人質」のパロディとして、「走れメロス」を書いた。
太宰が参照にしたのが、小栗孝則訳であることは、「警吏」「捕縛」「繋舟」などの独特の言葉づかいがことごとく一致することから間違いない。
間違いないどころか、この用語の踏襲の仕方は、律儀に過ぎるとすら感じられる。 これでは「盗作」という批判が登場するのをわざわざ奨励しているようなものではないか。
考えてみれば、用語の言い換えは簡単にできた筈の芸当である。
だが、太宰はあえてそうしなかった。大仰な用語をそのまま踏襲したことは、あえての選択であり、そこにもまた諧謔精神が孕まれていると読まなければならないだろう。
と同時に、太宰がやろうとしたことは、この叙事詩を単なる読みやすい物語に変換してみせることではないということに自ずと注意が向く。
太宰は大仰な用語の書き換えという簡単なことは行わなかった。
盗作の謗りを受ける可能性をも知りながらそれをしなかった。
では、にもかかわらず「走れメロス」が盗作ではないとするなら、太宰はどこをどう変換して新しい創造を行ったと言えるのか。
変えたものと変えなかったもの。
パロディ精神というものは、もともとそのあわいにしか存在しない。
そこで太宰の意図を知るためには、(当然のことだが)私たちは小栗訳「人質」と「走れメロス」の相違について、検討していく必要がある。
さて、詩形式から散文形式へという最も大きな文体上の転換に次いで(あるいはそれに伴う)大きな転換はなんであろうか。
それは後に「饒舌体」とも名付けれることになった、その文体上の特質にあるだろう。
メロス自身が、内白として語る部分の、話し言葉による饒舌は、太宰の別の作品「女生徒」などではさらに徹底しているわけだが、その大仰さにおいてはむしろ「走れメロス」においてその極北を見ると言えるかもしれない。
時代を下って戦後、庄司薫が「赤頭巾ちゃん気をつけて」で衝撃のデビューを飾り、新饒舌体と称せられるも、そもそもこの饒舌体なるものの最初の爆発は中期太宰の精神の充実から弾け出したものだったのである。
少女小説や、携帯小説も視野に入れるならば、その影響力の範囲はキリのないほど広い。
シラーの「人質」はやや大言壮語の嫌いがあったとしてもけっして饒舌ではない。シラーのメロスの一人称は人に向けて声に発しての台詞の部分と、ゼウスに哀願する叫びの部分以外にはけっして現れない。
メロスは作者シラーにとってかわって地の文で内白することは一度もなく、一貫して「彼は」と三人称において描写される。
実際、「人質」において、彼が「メロスは」とその名を用いて描写されるのは冒頭の一回だけであり、後はひたすら「彼は」と三人称の代名詞で、外から見つめられ続けるばかりなのである。
英雄とは何であるか。それは自分以外の者からそう呼ばれるものであろう。
それを大原則として意識すると、一人称と三人称の違いは単なる文体の違いだけにとどまることができない。
確かにシラーもまたメロスをかなり大仰に英雄として描いた。だが、シラーのメロスには決して「ひとりよがり」はない。
ひとりよがりは、構造上、生じようがない。
なぜならシラーはメロスを描写するばかりで、彼の内白はそこには含まれないからである。
つまり、太宰が「饒舌な」メロスの内白を採用することによって描き出すことに成功したのは、メロスの「ひとりよがり」、その滑稽な内景なのである。
(3)「信じること」至上主義
シラーの「人質」の冒頭はこうである。
「暴君ディオニスのところに/メロスは短剣をふところにして忍び寄った」。
太宰の「走れメロス」はここに至る以前に、メロスの人物描写やメロスが暴君の噂を聞く場面などを挿入している。
その上で、「人質」の冒頭と同じシーンに至るのだが、その部分はこうである。「メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入っていった」。
シラーのメロスは単純な男としては描かれていない。
メロスは暴君ディオニスを討つために周到な準備をして、「忍び寄った」のである。
町でディオニスの噂を聞くとすぐに激怒して「買い物を背負ったままで、のそのそと王城に入っていった」太宰のメロスとは異なる。
シラーのメロスの「忍び寄り」は、栄雄としての行為であり、太宰のメロスの「のそのそ入っていった」は、「単純な男」の軽率な行為である。
ところで、シラーはディオニスの暴君ぶりを具体的には描いていない。
それ故にこそ、ディオニスはまさしく典型的な暴君として想定されることになる。太宰はディオニスの人物造型に言葉を割き、彼を「人を信じられない不幸な男」として描きだす。
そして「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」と豪語する「単純な男」メロスとの完全な対照性を浮かび上がらせるのである。
シラーの暴君はたとえば人民から搾り取れるものを搾りとり自分は贅の限りを尽くすといったような典型的な権力者でもあろうか。
だが、太宰のディオニスが暴君とされるのは、多くの人を殺したことによってよりもむしろ「人を信じない」ことの悪徳に理由がある。
翻ってメロスは、人を信じない者は「生かしておけぬ」とする。
「信じないこと」の罪は「殺すこと」よりも重いのである。ディオニスは多くを殺したがゆえに誅せられるべきなのではなく、人を信じないがゆえに「生かしておけぬ」のである。
太宰のメロスは、「人を信じること」を至上のものとして信じて疑わず、何の計画性も周到性もなく行動する「単純な男」であり、決して英雄ではない。
「走れメロス」においてメロスは妹に向かって「おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから」と言う。
また妹婿に向かって「メロスの弟になったことを誇ってくれ」と言う。
またその内白において自らを「真の勇者メロスよ」と呼び、「やはり、おまえは真の勇者だ」と叫ぶ。
これらはすべて、メロスの自称である。
それに対して作者の太宰が地の文でメロスを勇者という箇所は次の二箇所である。
「勇者に不似合いなふてくされた根性が、心の隅に巣くった」
「勇者はひどく赤面した。」
前者は、力尽きて倒れたメロスが「もうどうでもいい」と弱音を吐くシーンであり、勇者を讃えるための言葉ではない。
勇者らしくない姿だということを語るために「勇者」という言葉が使用されているだけである。
力尽きて挫折しかけたメロスは一度だけ「それも私も独りよがりか」と自問する。 これは単純な男であることから自省的な思考へと移行しかけた稀有な局面なのである。
後者は、作品の末尾で裸の自分に気づいたメロスが赤面するシーンである。
勇者が初めて自己相対化して恥ずかしさにはっきりと目覚めるシーンである。
この裸の勇者の赤面というテーマには次章で詳述することにしよう。
いずれにしろ、ここではシラーのメロスが客観的に英雄とされる存在であるのに対して、太宰のメロスが「信じること」至上主義の「単純な男」であることを押さえておきたい。
(4)「恥ずかしさ」の目覚め
シラーの「人質」にはなく、太宰の「走れメロス」に描かれているシーンの最後のひとつは末尾の部分である。「人質」は王のこの台詞で終わっている。
「おまへらの望みはかなつたぞ。おまへらは、わしの心に勝ったのだ。真実とは決して空虚な妄想ではなかつた。どうか、わしも仲間に入れてくれまひか。どうかわしの願ひを聞き入れておまへらの仲間の一人にしてほしい」
もちろん現在巷間に出回っている「走れメロス」は現代仮名遣いで表記されているが、それは出版社の都合であって太宰の意図するところではない。
その点を除くならば、小栗孝則訳による王の台詞は、一点を除いて太宰による王の台詞と一字一句まったく同じである。
唯一の相違はシラーの王は「真実とは決して空虚な妄想ではなかった」というのに対して、太宰の王は「信実とは決して空虚な妄想ではなかった」と語る点だけである。
シラーの原詩ではこの言葉は「treue」となっている。通常は「真実」または「誠」などと訳すが、「嘘偽りのない」という点に焦点をあてるならば「信実」は誤訳とはいえない。
最も太宰がシラーのドイツ語を見ていた形跡はなく、一言一句小栗訳に忠実な王の台詞において「真実」だけを「信実」と書き換えたのは、太宰の思いが強く反映していることになる。
作品全体を通してそうなのだが、小栗訳に極端に忠実にしておいて、変更箇所だけを際立たせているのである。
「人を信じるということ」「人は信じられるということ」それを証明するために、ただその一事のために太宰のメロスは走ったのである。
熱海の旅館で太宰と檀一雄が共に豪遊し、ツケがたまった際の話はよく知られている。
お金の工面をするために檀一雄を熱海の旅館に残して太宰は東京に向かう。
だが、太宰は檀を置き去りにしたまま戻ってくることはなかった。
後に檀は「小説 太宰治」にこう書いている。
「私は後日、『走れメロス』という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少なくともその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。
あれを読むために、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。
憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』と太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる」
このエピソードが「走れメロス」に投げかける陰翳は深いが、ここで問題にしたいのは、太宰が王の台詞の先に付け加えた最後のシーンである。
この部分は、シラーの人質にはまったくなく、太宰の完全なオリジナルであり、一字一句まで引きうつした台詞の後であるだけに、その意図するところを考慮することは重要である。
これは「落語」における「落ち」のような効果をもたらしているのだが、実はその「落ち」にこそ、作品の最大のテーマが潜んでいるのである。
「一人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。
メロスは、まごついた。
良き友は、気をきかせて教えてやった。
『メロス、君は真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。』
勇者は、ひどく赤面した」
エデンの園のアダムとイヴが裸体であることに初めて恥ずかしさを覚えた瞬間のような神話的な場面ではないか。
だが、この場合の「裸」とは、遮二無二駆けてきたメロスが風態かまわずぼろぼろの衣装も飛び散って、肉体的に「裸」になっていた状態だけを指すのだろうか。
「メロスは激怒した」で始まり、単純な男メロスの疾走(暴走?)を描き続けた作品は「勇者はひどく赤面した」で閉じられる。
激しく怒っていた者が、ひどく赤面するまでを描いたのが、「走れメロス」という作品なのである。
その構造を見据えるとき、「裸」とは肉体的な赤裸々さだけを言うのではなく、単純な心理のすべてを恥じることなく臆することなく赤裸々にしてきた生き方の全体を指すと考えることが自然であろう。
あるがままの心の動きをあからさまに描くことはとても恥ずかしい行為である。
実は太宰はその恥ずかしさを人一倍意識して生きてきた人であることは、その数々の作品からも十分窺い知ることができる。
にもかかわらず「走れメロス」だけは、高らかにヒューマニズムを謳いあげた作品だと考えて済ませるのは、あまりにも大きなうっかりではないか。
「走れメロス」の真のテーマは、赤裸々な心理の開示の恥ずかしさである。
その大きな「落ち」のためにこそ、小栗訳「人質」に忠実な大仰な表現を重ねてきた。
さらにそれに加えて、シラーは一切描いていないメロスの独りよがりな内白を饒舌に描きこんできた。
描きこんだ上で、それを「恥ずかしい」という意識で照らし返し、作品の構造を二重にしてみせた。
すなわち「パロディ」化したのである。
恥ずかしいのは「信実」を至上のものとする単純さだというわけではない。
もちろんそれも恥ずかしいかもしれないが、それよりもむしろ、信実への思いも、弱音も、迷いも含めて、自らの心理のすべてを丸裸に告白することの全体が恥ずかしいというべきであろう。
あるがままの自己を赤裸々に見つめ表現することこそが恥ずかしいのである。
それがメロスが丸裸であることに目覚めて突然羞恥に目覚めたことの意味である。
太宰は、そのような恥ずかしさを強烈に意識するがゆえに道化として生きる人間の姿を「人間失格」などの作品で自伝的に描いたのはよく知られている。
「走れメロス」などの中期の作品群が、それとは別系列のものとするのは、評者のご都合主義である。
「走れメロス」は、自伝的な作品以上に道化に徹した作品である。
太宰は、それが道化であることを作中において読者に対してすら明示せず、道化として踊りきった。
そして、最後ににんまりと笑い、笑った瞬間にはもう退場してしまったのである。
「走れメロス」はそのような意味においてこそ、太宰の代表作なのである。
(5)表現への業
パロディは相対化、客観視、諧謔を含んで、元の作品を複雑な構造に紡ぎ直すことで成立する。
注意しなければいけないことは、それは元の作品の全否定ではないということである。
パロディの笑いを単なる嘲笑のようにとらえるのは、下品なお笑い番組の影響であろう。
だが、私は太宰が「走れメロス」において「信実」を嘲笑ったといいたいのでは決してない。
対象の価値を相対化しながら(ひとたび破壊しながら)、もう一度新たに蘇らせることこそが、パロディの仕事である。たとえば冒頭であげた「Mr.インクレダブル」は、ヒーローを嘲笑する作品であろうか。
むしろ、ヒーローを「価値崩壊」から復活させるためにこそ創られた作品ではないだろうか。
イロニーは、「知的」であることに殆ど宿命のようにつきまとう。
だからといって、そのイロニーが必ず「皮肉」のままに終わるとは限らない。
「信実」への太宰の希求は何度も屈折しながら表現されているが、それは「信実」への嘲笑で終わっているのではない。
太宰は人は人を裏切る存在であることを痛いほどに知っている。
その裏切りをあるがままに見つめる。
太宰が意識しているのは人は信じられるかという問いではなくて、現に自分は人を裏切っているということである。
(たとえば先のエピソードにもあるように壇一雄も裏切られた。太宰の出会った数々の女性たちもまた。)
ただ、太宰は、私はこんなにも裏切っているのではあるが、その全部を告白する表現者であるという意味では裏切っていないのだと言いたいはずである。
その絶望と悲しみを共有しようとする態度において裏切っていないのだと。
しかし、そこでまたそのようにして自らの内面を意識の及ぶ限り赤裸々に告白すること自体が恥ずかしいという意識がそこにかぶさる。
だが、さらにまたその恥ずかしさも表現していこうとするのが、表現者の業である。
太宰は、単純な自己を赤裸々に語るメロスの恥ずかしさを「走れメロス」のテーマとしたが、その恥ずかしさをも含めた自己の全体像を結局は、すべて表現しつくそうという情熱に駆られているのである。
裸であることの恥ずかしさについても、裸であるがままに表現しようというのだから、その自己省察と自己表現の「業」は尽きることを知らぬ「無間地獄」なのである。
そこでラスト近くで、メロスがなぜ走り続けるのかを語った言葉をこのように言い換えてみるのはどうであろうか。
「間に合う、間に合わないは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ。わたしは、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために【小説を書いて】いるのだ」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと【小説を書く】がいい」
ここにあるものは、この世の人間存在への信頼などでは決してない。
そうではなく、宇宙そのもの(存在性そのもの)への信頼と、自らに課せられた表現者としての業への信頼であろう。
作品末尾で私には、太宰が、そのような「信実」に刺し貫かれて、悲しみや絶望や恥ずかしさにぶるぶると震えながら、
裸のまま独り走り続けている姿が目に浮かんだ。