2016年の今日の日記
わかった!(と思う。)
「この世に投げ出したのも無碍光
いつでも回収すると約束したのも無碍光」
無限ともいえる過去。
時空のはじまりのとき。
実は光の中ではそのときからまだ時は流れていないのだけど、
そのはじまりのときに。
ふたつのことが同時に決意されたのだ。
カルマにまみれた時空をつくりだし、
幻想を実体と信じるあらゆる存在が、
時空のルールに応じて、具体的に働きかけ合う世界を開始する。
だがこの世界を開始する限りは
いつでも誰かが宇宙の無限の働きにまかせて
初めにあった無碍光に還るという心を起こしたときは
即座に還ることを保証する。
その二つは同時に決意されたのだが
二つの間には、微かな対称性の破れもつくられた。
そうでないと、生成した尻から、次々と存在は光に戻ってしまうから。
念入りにつくられたその対称性の破れは
こちら側から見ると、超えるに超えられないカルマに見える。
超えることが絶対不可能に見える。
実際それは対称性の破れの中からすでに現出した存在の側からは
自分で超えることは不可能だ。
しかし、元はといえば、同じ願いの中からつくられたものなので
元の無碍光の側からは
いつでも即座に修復し
回収することができる。
このいつでも即座に光に回収するという決意の方だけを
本願として物語化したため
それは神話に聞こえる。
だがそのふたつが同時に決定されたということを両方きちんと見つめれば
それは神話であって、神話でなくなる。
光と時空の関係性におけるただのルールだ。
そのひとつの説明の仕方に、物語を用いただけだ。
物理学もひとつの説明である限りにおいて物語である
というのと同じ意味で
本願も物語(の片面)であるだけだ。
そう思って、浄土三部経をぜんぶ読み直してみて
何か矛盾があるかどうか、検討してみよう。