物質も空(くう)、霊魂も空(くう)なのに、なぜあなたは、霊魂などないということに関して、物質に比してそんなに厳しく言うのかという質問があったので、考えてみたのだが、物質があることに関しては生まれたときに合意している。壁があったらぶつかる。ドアからしか部屋を出ることはできない。(まあ、壁を爆破するという手もあるが。)そのようなことに同意したから生まれてきた。一回死んだときも、もう一度「合意することに合意した」ので、蘇ったのだ。
しかし、霊魂は、さきごろ話題の(日本文化固有の、それをちゃんと読むのが正しいとされる)「空気」に似ていて、ないのにあるかのようにふるまうことを強要される。たとえば宗教的権力者によって脅しのように用いられ、それに人々が合意ではなく同調することによって、あたかも存在するかのようになってしまう。そして鎮魂が必要だとか、お墓を捨てるときも魂抜きが必要だとか(私は無視したが)、脅されるのだ。その核には、宗教的権力者がいて、それを空気として醸成している。
だから、霊魂が存在するといって人々を支配するのは、一種のパワハラ・モラハラなのだ。そして時々、真の洞察をもった勇気ある(私はそれでふつうと思うが)覚醒者が現れいでて「神は愛なり」(キリスト)「信心の行者には天神地祇も敬伏す」(親鸞)「アッラーのほかに神はなし」(ムハンマド)「神は死んだ」(ニーチェ)とか言って、私たちを解放するのである。(ムハンマドが言うのは英語でいえば、No God but Allah.つまり、大切な点は地上のいかなるものも拝まないということだ。)
だから生きている限り、物質的存在は合意的現実であるが、霊的存在に関しては合意ではなく、同調だと私は思う。しかも、時と所によって、タブーも鎮魂の仕方も異なるではないか。
「いや、自分にとっては同調ではない、物質と同じように心からの合意だ」という人については、わざわざ説得することはやめることにしよう。しかし、自分がどう考えているかは書いておくことにしよう。そのまま並行で、決着でいいんじゃないかな。