『魂の螺旋ダンス』改訂増補版 今回は無料 なぜなら、部族シャーマニズムと、国家宗教としての神道は峻別されないといけないということについては、ただでも、全員に言いたいから。
・部族社会を選択した人々
国家の誕生は、広範な地域を平定し、秩序を安定させ、協力を可能とするという大きなメリットを伴っていた。
そのため多くの部族社会の中には隣接して台頭した国家の大きな力に飲み込まれ、組み込まれていった。
だが、国家の成立の過程では、数多くの殺戮と収奪、文化的な支配や抑圧、時には殲滅があったことはけっして忘れてはならない。
各部族は最初から喜んで国家意志に従ったのではなく、様々な戦闘や脅し、駆け引きの末に国家への参加または従属を余儀なくされたのである。
そしてその過程では部族社会の有していた美点が破壊されるという側面もあった。
「国家を形成せず部族社会を維持し続けた地域に暮らす人々は遺伝子的に劣った人種・民族なのか」という問題がある。
ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』において、そのような地域格差をもたらしたものは単に地域条件の違いであり、条件の整った地域では人種・民族に関係なく人々は国家文明を築いていったのだと唱える。
その条件についての詳細な分析が伴うだけにかなりの説得力のある論考であり、白人であるダイアモンドが人種差別を乗り越えようとした良心的な意図も伝わってくる。
ところが、これにはおそらくダイアモンドには思いもよらなかったであろう反論もある。
すなわち「国家成立の条件が整っていたにも関わらず、部族社会を維持することをあえて選択した人々もいるのだ」という見方である。
たとえば、北米インディアンや日本列島の北方に住むアイヌなどは、社会的経済的条件としては国家を形成するに十分な条件を備えるようになってからもなお、国家形成のデメリットに着目し、国家化に抵抗し続けたと見る立場がそれである。
ダイアモンドは良心的な学者だがその彼にも「国家文明は部族社会よりもよいものだ」という無意識の固定観念がある。
「部族社会を選択した人々」という考えは、その固定観念を鋭く突いてくる。
近代国家による世界侵略と分割の嵐の末、現代ではすべての部族社会が少なくとも形式上は国家の枠組の中に取り込まれることとなった。
だが、近来まで部族社会を維持してきた人々は、性急な国家化に走らなかったからこそ、第一章で見たような部族社会の美点を現代に伝えることができたと言える。
部族社会は遅れた社会なのではなく、選択された社会なのだとするこの見方は部族文化復興運動にとって、自らの尊厳を自覚するための重要な精神的支柱のひとつとなる。
もちろん、それは単純な退行運動であってはならず、部族社会のネガティブな側面は冷静に見つめられなければならない。
また国家形成の持つ優位性にいたずらに目をつぶり続け、
国家というものの存在のすべてを非難することも、今日ではけっして現実的ではない。
が、部族文化には伝えるべきポジティブな側面があり歴史の進歩を単線的に見ることは間違っているのだとする意識は、部族の誇りの源泉となりうる。
我々が探らなければならないのは、国家を基軸とする現代世界の枠組の中でも、各部族の誇りと価値を最大限に生かしていく道なのではないだろうか。
・ 神道の位置づけ
「神道」については、昨今、ニューエイジ思想などの一部においてその定義を拡大解釈する傾向が見られる。
たとえば「縄文時代以来のわが国の神道の伝統」というような物の言い方が安易になされる場合がある。
このような用語法は大きな問題である。そもそも縄文時代には「わが国」などないし、「神道」も存在しない。
このような用語法の問題点は、部族シャーマニズムと国家宗教の混同にある。
これでは国家宗教である「神道」と、この島古来の部族シャーマニズムとの区別がつかなくなる。
私の螺旋モデルにおいて、「神道」はよくも悪くも
(1)部族シャーマニズムにではなく、
(2)国家宗教の類型に属するものである。
近代以降の欧米の視点から地球上の諸文化を見るとき、部族シャーマニズムと国家宗教の区別はそれほど重要ではないかもしれない。
キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教以外の精神文化は、十把一絡げにエキゾチックなものとして時には差別的に見下され、時には闇雲に崇拝される。
ラフカディオ・ハーンやアーノルド・トインビー、レヴィ・ストロースなどの優れた学者ですら、ある意味ではそのようなエキゾチズムに捉えられている。
欧米の価値観を相対化するのはいい。
だが、その他の諸文化を部族段階のものも国家段階のものも横並びに見ることは、新たな混乱の始まりである。
アイヌや琉球、果ては北アメリカのネイティブ・ピープルの復興運動と、天皇制日本のナショナリズム復興運動が、何の切断面もなしに横つながりになってしまうといった奇怪なことまで生じうるのである。
さてでは、国家宗教と部族シャーマニズムは、どのようにして区別するべきであるか。
この点について考察するため、今一度、国家宗教の特徴を整理してみよう。
見てきたように国家宗教の特徴としては
(1)聖なるものへの個的で直接的な回路は抑圧され、祭司が宗教的権威を独占している。
(2)国王の祭司や政治権力を正統化する「書かれた民族神話」を有している。
(3)血縁などの直接関係を離れた抽象的な大集団への帰属意識が生まれている。の三点が指摘できる。
日本の神道は、実はその三つの条件をすべて満たしている。
その点において部族シャーマニズムとは根本的に性格を異にするものである。
宗教類型の分別においては、明確に国家宗教に含めて考えるべきものなのである。
確認するが、私が言うのは、明治以降のいわゆる国家神道(最もこの言葉が初出するのは、GHQの神道指令による定義によってだが)だけではなく、神道成立のまさに最初の一歩から、神道は「国家宗教」と定義されなければならないということである。
あるいは逆にこういう言い方もできるだろう。
国家宗教の成立以前の日本列島の精神文化の古層を対象にする場合には、そこに「神道」というタームを用いることはできない。
部族シャーマニズムは、国家化を拒否する思想、あるいは少なくとも国家化と両立しない思想であることを押さえておく必要がある。
一方、神道は各部族を統合し、国家への帰属意識を生んだ「書かれた民族神話に基づく国家宗教」であるとしなければ、その存在意義はないのである。
もちろん、神道も含む世界各地の「国家宗教」の中にも、形骸化した構造としては太古の精神文化の片鱗が認められる。だが、それらは軍事的な力で収奪され、国家的な秩序の中に組み入れられたものである。
平城京跡の国立奈良文化財研究所には、発掘された「隼人の盾」が展示されている。
盾に描かれたこの二重螺旋の文様のうねりは、なんと魅力的なことだろう。
原初的な部族社会のエネルギーのうねり・・・。
だが、征服された「異民族」の隼人たちは、天皇の前でこの盾を持って整列させられ、服属儀礼として「土人の踊り」を披露させられたという。
また犬の遠吠えの真似をさせられたとも伝わっている。
「まつり」と本来、天皇への服属儀礼を意味する言葉である。
それゆえに天皇への服属を拒否しつづける部族を「まつろわぬ民」と言う。
隼人もまた「まつろわぬ民」から「まつる民」への道を歩んでいった部族のひとつである。
部族の踊りを自らの歓びのためだけにではなく、服属儀礼として踊ったとき、彼らの胸にはどのような思いが去来していたのだろうか。
・ 日本の国家デザインと神道
では国家としての日本の成立経緯を振り返り、神道が日本の国家デザインと切り離すことのできない国家宗教であることを具体的に検証しておこう。
古代国家としての日本は、七世紀において天武朝のころにその基本的なデザインが作られた。
この時期、この島では、中国の強い影響下で国家としての形を整えることを急務としていた。
部族(豪族)間の争いを抑え、強い抽象性を持った「国家神話」で国を統一していく必要があった。
そこで生み出されたのが
「神道」
「天皇」
「日本」
という三つの横顔を持った国家統一の理念であった。
「神道」というタームが文献上に初出するのは、八世紀成立の『日本書紀』である。
すなわち用明紀に「天皇は仏法を信じ、神道をも尊ぶ」とある。
(ここでは詳細には述べないが、仏教もまたこの時点では、外来思想の国家宗教的受容といった段階である。)
また孝徳紀に「神ながらとは神道に随うなり」とある。
また「天皇」という用語も、文献上に初出するのは、『日本書紀』である。
「神道」とは、もともと中国の道教の用語である。
そして「天皇」という言葉もまた同じく道教の用語である。
「天皇」は、道教で北極星を神格化した用語であり、宇宙の最高神を指す。
さて、「天孫が天上世界から地上の世界に降臨する」という思想も中国では古く『詩経』に原型が見られるもので、道教の世界にも取り入れられている。
こうして中国思想を巧みに援用しながら、「天皇中心の神の国=日本」という古代国家デザインが誕生したのである。
この国家デザインが、装いを変えてさらに鮮明に復興するのは、黒船来襲においてのことだ。
この時の日本もまたアメリカを始めとする欧米近代国家の強い影響下で、今度は近代国家としての自らを確立する必要性に迫られていた。
そこで再び古代国家日本のデザインが持ち出され、最大限に利用されるのである。
強固な国家的アイデンティティを持つことで他国に対抗することの必要性は、切実なものである。
部族社会を選択し続けた地域の人々は、とどのつまり他の国家によって徹底的に蹂躙されていったのは、残念ながら歴史の現実なのだ。
たとえば北米インディアンが辿った道を思うとき、日本が欧米列強に対抗して、近代国家的アイデンティティを堅固に持とうとしたことの「ある種の賢明さ」は認めるべきであろう。
問題はなぜ人類はしばしばナショナリズムの行き過ぎを阻止できなくなり、血で血を洗う争いに突入してしまうのかということだ。
道具としての幻想装置が暴走を始め、逆に人々を道具にし始める。
そのことをなぜ阻止できなかったのかと考えるとき、幻想を幻想として自覚していることの重要さを思う。
そして果たして今なお私たちは幻想を必要としているのだろうか?