中学に入学すると数学で正負の数というのを習った。
僕は正の反対語は誤だと思った。負の反対語は勝だ。プラスマイナスは正誤ではなく勝負に近いのでプラスを勝、マイナスを負と訳すべきだと思った。
勝つが勝ったら勝つ。プラス×プラス=プラス。
負けるが勝つか、勝つが負けたら負ける。プラス×マイナス=マイナス。
負けるが負けたら勝つ。反対の反対は賛成なのだ。とバカボンのパパも言っていた。マイナス×マイナス=プラス。
辻褄があっている。
僕は正負を勝負と読み替えることでここを乗り切った。正負では反対概念ではないので意味不明と思った。
ところが座標軸というのが出てくると、勝負がX軸にもY軸にも出てきたので、これは最初からX軸では左右、Y軸では上下と呼ぶべきだったと思った。
たとえば座標軸の(3,4)は(右3、上4)、(-5、-7)は(左5、下7)だ。
XとかYとかいうからわからなくなる。
日本語でいうべきだろう。日本語で言わないものをそういうものだとして無条件に受け入れるのは奴隷根性だと思った。
それにしても、なぜX、Yなのか。それは最後にZを残してあるからではないか。 ということは、Z軸はどこに引けるものなのか。それはノートから自分に向かって垂直に飛び出してくるものが手前、ノートの向こう側に垂直に遠ざかっていくものが奥だと思った。
そうだ、三つ目の軸は手前、奥だ。
これは前、後でもいいのだが、ちょうど座標軸の0,0,0点が自分と同じ位置にあれば、自分より後ろが後、前が前だ。
しかし、これではさっき手前と呼んだものを後ろと呼ぶことになる。
そもそも殆どの場合、ノート上の座標軸は自分の目の前にあるのだから、自分に近づいてくるものを手前、遠ざかっていくものを奥と呼ぶ方がいいだろう。
(ただし、これは、0,0,0点をどこに置くかによって、ものの見方が変わってくる。0,0,0点を自分の位置にする場合にはやはり手前を後、奥を前と呼んだ方が便利だと思った。)
ところで、私たち人間は三次元空間に住んでいて、時間を往来できない。だから座標軸は三つまでしか引けない。四つ目を引くにはどうしても、時間を往来する必要がある。
だから空間の中では引けないが、抽象概念としては引くことができる。それを何と呼ぶかと考えたとき、時間を自分の前後と感じることに私は愕然とした。それは空間概念だろう。
未来を自分の前方に、過去を背後に感じるのは、時間の空間への読み替えだ。
それなのに、言葉遣いは逆だ。
過去は前、未来は後という。
また、過去を先ともいう。
後は、「ご」や「うしろ」のほかに、「あと」や「のち」とも読める。
「うしろ」は、ほぼ空間にのみ、用いる。
「あと」は中途半端だ。
列の「あと」に続きなさいと言ったときは空間で、宿題をした「あと」テレビを見なさいと言ったときは時間概念だ。
だから時間には「のち」がいいと思った。
列の「のち」に続きなさいという日本語はおかしいので、「のち」は時間軸においてのみ使う。
第4の軸は、「さき」「のち」だ。
これは座標軸の中に軸として描くことはできないが、特異点がどこから来て、どちらに向かおうとしているかという、今現在における潜在的なポテンシャルとして⇒とその力や速度として想定することはできる。
劣等生である私はそんなことを、窓の外を見ながら、ずっと考えているうちに黒板に書いてある数学がさっぱりわからなくなったのである!
これは劣等生の頭の中はどれほど忙しいのかの、ほんの一例です。
社会の時間の忙しさといったら、数学とは比べものになりません。
先生、劣等生というのは、そのようにして生まれてくるものです。
そこのところ、なんでも言われたとおりに信じてきて、先生になったあなたにはわからないかもしれませんね。