・聖なる表象の変遷
では、民族国家宗教と部族シャーマニズムの相違についてさらに検討を続けよう。
第一章では、部族社会のシャーマニズムにおいて、聖なる表象は動物の精霊であり、至高神的な観念が見出される場合にも、それは人格神ではないことを観察した。
ここでは、そのような聖なる表象が、その後、国家宗教の成立に向けてどのように変化していくかを跡付けてみたい。
大雑把な図式だが、以下のように整理してみよう。
すべての人類はその始まりにおいて、狩猟採集社会を形成していた。
その際には、聖なる表象は、基本的に動物の精霊であった。
ところがその後、人類は、狩猟採集的な社会をそのまま維持する民と、農耕的な社会へ移行する民、遊牧的な社会へ移行していく民に分化していく。
この時、農耕社会は地母神的な観念を発達させ、遊牧民は天空神的な観念を発達させる。
農耕社会では、まず豊穣の女神が、動物の精霊にとって替わる。
ところが、そこでさえも、やがて国家の成立と共に遊牧民的な天空神が支配的となり、聖なる表象は女神から男性人格神へと変貌していくのである。
つまり聖なる表象は、
(1)動物霊
(2)豊穣の女神
(3)男性的な天空神
というように変遷していく。
では具体例として日本の国家宗教としての神道についてやや詳しく考察してみよう。
上記のように見ていくとき、『古事記』に見られる「神道」成立期の聖なる表象は、アマテラスの重要性などから見ておよそ(2)から(3)への中間にあると言えるであろう。
だが、サルタヒコにおける猿の要素など一部(1)の要素も見られないわけではない。世界の神話の中では、比較的その古層を多く残存させているという見方が可能である。
だが、その表層を越えて、神話の構造をよく観察するならば、結局は(3)の男性的な天空神の支配が貫徹しており、典型的な「国家宗教」としての特徴を備えていることがわかる。
そのよう考察を通じて、神道が今論じているところの「民族国家宗教」のひとつの典型であり、『古事記』は部族シャーマニズムの書ではなく、国家神話であることが明確になる。
以下、その点についてやや詳細に検討してみよう。