・朝家のための念仏とは
建長八年、親鸞八四歳の頃に性信に送った消息の中に「朝家の御ため、国民のために、念仏まふしあはせたまひさふらはば、めでたくさふらふべし」がある。
この文言は戦時教学において、徹底的に悪用された。
朝廷を中心とした国家の安穏のために念仏をするべしという教えが巨大な真宗教団によって広められた。
折りしも、東西両本願寺を代表する学僧たちは、あろうことか、阿弥陀仏と天皇を重ね合わせて見る思想を開陳しはじめた。
著名な学僧の殆ど悉くがである。
このような戦時の学僧たちの発言は、明らかに親鸞の残した著作や言葉から逸脱している。
キリスト教の世界では、灯台社の明石順三などが天皇の神的権威を否定し、殺人を罪として兵役を拒否するなどの活動が見られた。
明石を含む灯台社のメンバーは治安維持法などによって大量に検挙された。
戦後、明石らは釈放された。
が、本来同一の信仰団体であってしかるべき戦後の「ものみの塔」は、明石らの歩んだ道と切断され、新たにアメリカから流入したものである。
訪問布教や最近では駅前での冊子配布などでよく知られる現在の「ものみの塔」の信者(エホヴァの証人)には、驚いたことに明石らの歩んだ道について知らない人も多い。
ところが、良くも悪くも様々な側面でキリスト教と相似形を成してきたはずの真宗教団ではそのような抵抗運動すら起こらなかった。
治安維持法下の大日本帝国における抵抗は命がけであることは理解できる。
問題は、戦後なお、真宗教団を代表する学僧たちは、戦時の発言についての総括や反省を経ないまま、教団の中枢や宗門大学の教授の地位に止まり続けた点の方が大きいかもしれない。
その曖昧な連続性と、戦後の平和憲法の下での教団の左翼化とは不思議な共存を成してきた。
一方では、戦時教学批判は、曲がりなりにも進められてきた。
ところが、時代の変化と共に社会全体の右傾化が進み、今また教団の果たす役割が、どちらに振り子を振るのかは予断を許さない状況になっている。
そんな中、戦時教学に徹底して利用された親鸞自身の言葉「朝家の御ため、国民のために、念仏まふしあはせたまひさふらはば、めでたくさふらふべし」について、その真意を改めて明確にしておくことは重要と考える。
この点について、私が最も示唆に富むと考えているのは、古田武彦の『わたしひとりの親鸞』の中、古田が過去の思想家の言説を分析してきた上で、「わたしの理解」という章を設けて開陳している考察である。
この文言の含まれる消息(手紙)を親鸞が性信に送ったちょうど同じ頃、親鸞は『正像末和讃』において、念仏弾圧の激しさを心底嘆いている。
「五濁の時機いたりては 道俗ともにあらそひて 念仏信ずる人を見て 疑謗破滅さかりなり」
「五つの濁りの時代となると、僧侶もそうでない世間の人々も互いに争い、 念仏の教えを信じる人を見ては疑い謗り、 盛んに討ち滅ぼそうとする」
ここで「道=僧侶」も「俗=そうでない世間の人々」もと呼ばれているのは、どのような人々であろうか。
このことを裏付ける別の消息として、古田は次の文言を挙げている。
「ただひがふたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまひらせたまふになりさふらふべし」
「ひがふたる」の「ひが」は「僻み」の「ひが」である。
「ひがふたる世の人々」とは「素直になれず、ひがんで、間違ったものを頼みにしている世間の人々」というほどの意味になろう。
人は、自らの弱さや小ささを認めず、そこに素直に立ちきることができないことが多い。
勢力の強いもの、世の中で支配的な力を行使しているもの、そのような存在を頼りがいに思い、長いものに巻かれていく。
何もイエスや親鸞やマルクスを持ってくるまでもなく、社会というものは本来、弱者に優しく、近隣の他国とは共存共栄しようとする治世の下にあるのが望ましい。
その知見は人類が、様々な先住民社会の事例や、超越性宗教の預言(正確な社会分析に基づく提言)などに基づいて発達させてきた「人権思想」の賜物である。
しかし、「ひがふたる世のひとびと」はしばしば、そこに立ちきることを拒否して強がる。
本来、共に歩む仲間であるはずの弱者に対しては厳しく、逆に自分を抑圧、弾圧、搾取してくる大きな権力に取り入ろうとする。
親鸞の時代でいえば、奈良の興福寺などの巨大寺院、朝廷や幕府などの権威、そのようなものの側につき、それらと一緒になって、差別されている弱者の集団である念仏者集団を弾圧する。
この消息で親鸞は、「素直になれず、ひがんで、間違ったものを頼みにしている世間の人々」にもまた祈りを捧げ、彼らもまたすべてを救い摂め取ろうとする本願に入れという思いで念仏を続けてきたのが、法然以来の念仏集団であることを想起している。
そもそも、そのように僻み、誤ったものを頼りにしている者たちをも、皆、だれひとり見捨てず、救おうとしているのが、阿弥陀の限りなき働きである。
そうであることを思えば、その恩にひたすら報恩し、念仏することになろうと言うのである。
当時、朝家=朝廷は、興福寺などの旧仏教のそそのかしもあり、激しく念仏を弾圧していた。
と共に、そのような権力者たちに追随していた世の人々も「すべてを摂めとろうとする阿弥陀の限りなき働き」にゆだねることなく、誤った権威に付き従うことで安穏を得ようとしていた。
それはますますあらゆる人々を窮地に追い込んでいく道なのだが、それに気づかず、目に見える大きな力を持ったものに取り入ろうとし続けたのである。
しかし、そのように生きあえぐすべての人々を救済しようとするのが、阿弥陀=限りなき働きではないかと親鸞は言う。
現代社会の例でいえば、世界を支配する軍事力を持った大国。
その大国に取り入りながら、自国を支配している政権。
その圧倒的な力をもった政権に取り入る役人や、世の人々。
自らはむしろ弱者であるのに、仲間と手をつなごうとせず、強い勢力に取り入ってますます自らを窮地に追いやる人々。
彼らはまた、集団としての自国が「強い国、素晴らしい国、美しい国」という思いに一体化することで、弱いひとりの人間として生きあえぐ自分を見つめることを回避し続ける。
そのような者もまた阿弥陀の限りなき働きは救済しようとしていることを思えば、感謝の念仏が自ずとあふれてくるばかりではないかというのである。
話を戻そう。
「朝家の御ため国民のため、念仏まふしあはせたまひさふらはば、めでたくさふらふべし」と親鸞が消息に書いたとき、いかに朝家や国民が念仏を差別排斥していたか。
そのことを考え合わせなければならない。
つまり、ここで国民と呼ばれている存在は、念仏集団にとっては裏切り者とでも言えるような「ひがふたる世のひとびと」であると古田は解釈している。
すると、この言葉もまた、イエスの「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」という言葉に似てくる。
自分たちを抑圧するものの「ために」こそ、念仏もうしあわせようではないかというのである。
自然に思い出されるエピソードのひとつは、自らの政策を批判してくる民に向かって、「このような人々に負けるわけにはいかない」と指さした政治家と、「そんなあなたも救われてほしい」と返した政治家の例である。
後者の政治家が念仏者であるという話は聞いた覚えは特にない。
が、ここで大切なのはそのスピリットであって、実のところ、私自身、念仏そのものに絶対の価値を置こうとしているわけでは全くない。
「朝家の御ため国民のため、念仏まふしあはせたまひさふらはば、めでたくさふらふべし」という言葉に対する「朝廷や国民のために鎮護国家の祈りとして念仏しなさい」という戦時教学の解釈は曲解であることは今や明白であろう。
当時の朝廷や誤った権威を頼みにしていた国民が、念仏者を激しく差別・弾圧していたという側面を考え合わせるとき、それは「私たちを弾圧してくるあなた方もまた限りなき働きの中にある仲間として、私たちは念仏する」という意味となる。
歎異抄の後書きに示されているように、当時の念仏集団は多くの死刑や遠流の刑に処されている。
そんな中、この文言は、「私たちを差別・弾圧し、死罪にしたり、遠流にしたりする朝廷や、それに追随する人々もまた阿弥陀の限りなき働きによって救済されるであろうことをありがたいことだと念仏しよう」と言うのである。
以上、私は注意深く言葉を選んで書いてきたが、私の焦点を改めて説明しておこう。
確かに、戦時教学の極端な曲解は、戦後、古田武彦を初めとする幾人かの念仏者によって、正されてきた。
この箇所を自らを迫害するものへの祈りととらえ、その心の懐の深いことへの感慨が語られてきた。
しかし、ここでもうひとつ考え合わせておかなければいけないことがある。それは、親鸞の思想では、念仏の功徳は回向できないことである。
つまり「朝家の御ため国民のため、念仏まふしあはせたまひさふらふ」としても、少なくとも親鸞の思想においては、その念仏の功徳が朝家や国民に回向されるわけではないのである。
法然においては、この念仏はより「祈り」に近いものであり、功徳を回向しようという心もあったかもしれない。
そして親鸞は法然の遺志を継ぐ形でこのように述べているのであるから、言葉遣いも朝家の「御ため」国民の「ため」と、まるで念仏するのは、功徳がそれらの対象に回向されるようにする「ため」のように聞こえる言い回しになっているかもしれない。
しかし、親鸞の思想では、功徳を回向できるのは、阿弥陀(=宇宙の限りなき働きと私は訳しておきたい)だけである。
その限りなき働きは、一切衆生に行き渡り、止まることを知らない。
つまりここに「朝家の御ため国民のため」と言っても、親鸞の思想においては、その念仏の功徳を回向するためと解釈することはできない。
念仏を誹謗するそのような人々もまた救済の対象であることを思えば、その限りなき働きの願いの深さに感涙、報恩し、念仏せざるを得ないという意味になる。
彼らに助かってくれと私たちが念仏することで彼らが助かるのではない。
彼らもまた助けると誓っている「阿弥陀の限りなき働き」を念い、歓喜と報恩にあふれて、ますます念仏することは祝福に満ちているというのである。
今述べたのは私自身が留意したいと思った点であるが、消息の文言をそのままに読むとき、親鸞は彼らの救済を願っての念仏を勧めていると読むのが素直であるかもしれない。
それは法然の表現に引きずられた部分がそのように読めるのではないかと考えるのであるが、どうであろうか。
「念仏の功徳は回向できない」とする重要な思想と「ための」念仏ということの矛盾については引き続き課題としたい。
あと、一点。
「朝家の御ため国民のため」と表現したとき、この「御ため」の「御」はなぜ国民と区別して朝家にだけ付す必要があったのであろうか。
この消息の親鸞の真筆は伝わらないため、後世の加筆である可能性もある。
が、仮にこれが親鸞の言葉遣いそのものであるとするなら、このたったの一字が私の「親鸞は無差別の人である」という信頼感に黒々とした汚点を残すと告白しておく。
一九八七年、浄土真宗大谷派は、日本の仏教各派の中では初めて侵略戦争への加担に対する自己批判を公表した。
ここでは自分にとって有縁の浄土真宗大谷派を中心に、日本における絶対性宗教の戦争責任を考えた。
他の宗教団体等にほとんど触れなかったのは、他には責任がないと考えるからではない。
くり返すが目的は断罪ではなく、事実、構造、過程を明らかにし、未来について考えることである。