(3) 教訓ではなく悲しみ
およそ文学作品の読み方として、ひとつの作品から何らかの教訓を引き出してそれで足れりとするような読み方は、もっとも初歩的なものに属する。
いや、はっきり言うならばそれでは全然読んだことにならないのである。
あるいは、それで読んだことになるような作品は、もともと文学とは呼べるようなものではなかったということになる。
しかし、日本の随筆の中でも屈指のものとされる『徒然草』 を読む時の私たちの態度はこの点において甚だ暖昧である。
しばしば私たちはひとつの章段から、ひとつの教訓を引き出して安心してしまいがちである。
そして何かを学んだという、小さな満足感と共に、鑑賞を完結させてしまう。
それでは『徒然草』 は文学作品としてその程度のものなのだろうか。
たとえば、有名な第五十二段、仁和寺の法師の話を見てみよう。
仁和寺の法師は御室から岩清水八幡宮まで、わざわざ徒歩で訪ねる。
しかし山のふもとの付属的な社だけを見て、これが本社だと思い込み、帰ってしまうわけである。
そして仲間にこのように述懐する。
「聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。 そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」
ここで急転直下、兼好は「少しのことにも先達はあらまほしき事なり」と教訓めいたことを言って、章を閉じてしまう。
ここで我々は「ああ、このことが言いたかったのか。」と安心してしまう。
この作品の鑑賞に「けり」をつけてしまう。
教訓を見いだして、感じることをやめてしまう。
ところが、よく注意して読んでみると、兼好は「先達はあらまほしき」というコメントを、ひとつの教訓として呈示し、この事件に 「けり」をつけようとしたのではない。
微妙な言葉に注目してみてほしい。
「先達」はあくまでも「あらまほしき」 ものである。
常々あるとは限らないものであり、現にこの場合はなかったのである。
そしてまた、持とうとして必ず持てるよ うなものでもあるまい。
兼好は教訓として「先達を持て」と言っているのではない。
「あらまほしき」ものだが、しばしば「ない」ままに生きていかなければならないのが、生だということを見つめているだけなのである。
ここで最も肝要なことは、法師を見つめる兼好の眼差しのありように気づくことなのである。
兼好は慈愛に満ちた目で、法師を見つめている。
山のふもとの小さな社屋だけを見て、帰途に着く彼の背中。
もう一生、本物の八幡宮を見ることもなく、死んでいくのかもしれない。
その背中を見つめる兼好のこっけいなほどかなしい(あるいはかなしいほどこっけいな)思いを、そのまま受け取れば、読者はそれでいいのである。
我々は知らず知らずのうちに、教訓の蓄積によって人生の問題はすべて解決しうるという幻想の中に生きている。
そのような態度でいる限り、読者はこの章に描かれる仁和寺の法師を、 いつのまにか見下してしまう。
教訓さえ知っていれば、避けることのできた失敗をおかした愚か者ということになるからだ。
だが、兼好は、法師をけっして見下してはいない。兼好はただ 「このよ うにして人は生きて死んでいく」 ということを言っているだけだ。
(つづく)