最近、アインシュタインの言葉というアインシュタイン博士の言葉を引用しています。彼の発想は抽象的で、意見は山ほど生まれます。ボトムの思考であってもトップの思考であっても、どちらであっても良いのですが、私自身ボトムを好まないので、波長の短長を繰り返しながら、行ったり来たりしています。
そこで、本日の議題は、以下に含まれます。
自分が他の人たちのために存在していることは、深く考えなくても日常の生活で分かっていることです。―――アインシュタイン
そうですか?
そうじゃないと主張される方ばかりではありませんか?
誰だって誰かのために生きているんだ、と口で言って利権を得て己のために使っているんだ、と主張なさっていませんか?
そう思っている方は自分で得た価値を己のために使っているという発想なのですね。
これは共通集合から抜け出したいという孤独になりたいという人の思考です。そうして何かに貢献出来ると考えているわけではないでしょう。きっと孤独でいたいとそう願っている。
それは真実でしょうか。
誰だって話が合う人間がいれば、語り掛けませんか?共感を得たいと思いませんか?そうすると楽になる。孤独は偉いという思考は孤独しか思考を得ないために仕方なく起きた必然です。
集合で集まるところも選びましょう。環境は選ばない限り孤独者の集まりに行っても碌な事はありません。皆マイノリティです。共通因数は弾かれます。
メジャリティな発想を持ちましょう。そうしてメジャリティな発言を心がけましょう。マイノリティな発想はあまり意味の無い空虚な価値しか生まないでしょう。
自分の味方の社会にはメジャリティで。
自分の敵が集まっている社会であれば、マイノリティでも良いのかも知れません。それも善意でメジャリティな発想をしておくのも良いでしょう。何せ人間発想して思いつくことはメジャーです。マイノリティな思考の大半は自分で創造しただけの話であることが多いです。
そして、議題は、ここで変わりましたね。メジャリティかマイノリティか。
そうして、その行動の意味は、誰かのためにいるわけではない、その主張です。
誰かのためにいるのだ、とする主張は決して、孤独を制限するためにするべき主張でもありません。誰かと共有するべき発想は共有して、シェアは図りましょう。意見が通らないのであれば、通すべき場所で発言しましょう。
それが結果的に孤独であるならば、それは必然の価値を生み出します。
どうでしょうか。孤独というのはマイノリティ依存ではないのです。価値の淘汰による必然なのです。そう考えれば分かりやすいでしょう。人の価値は変わります。意見にも寄るでしょうが、その人の志向性にも寄ります。どんな意見を言っても仕方の無いという意見は通すべき環境が整っているのでしょう。そういう時は環境を変えましょう。その結果の孤独は己の価値です。
孤独が価値を生むというのは、マイノリティ依存ではない、と話しましたね。
孤独は何かが原因で生まれるわけでなく、淘汰されて起こる必然であって、気にする必要性はありません。人間皆孤独です。しかし、価値や金銭や利益を共有して、お互いに社会を構築します。
貢献はそのための結果に過ぎないのです。したくてするわけで無い、その主張は最もでしょう。私もしたくてLOLとして記事を書いているわけでもありませんし。
ただ私の言いたい事を一方的に聞いてもらいたい。
それが欲で色んな事象を語ってきました。聞くだけの価値があると宣伝こそはしますが、それだけの価値を認めるのは他人です。あくまで青年の主張です。清廉潔白でもないですし、本音を考察し、己を知るためにこのサイトに依存しているだけに過ぎない。
これは建前です。
己が正しい事を言っているだろうか、と確認する作業も昔は行っていましたが単なる空虚に過ぎない議論に過ぎません。そんな便所の落書きめいた清廉潔白を語りたいならば政治家になるべきでしょう。心意気としては立派ですが、何事も知的にいきたいものです。
知的であるならば、人の意見を聞きなさい。そう主張したい人間は山ほどいるでしょう。しかし聞くだけの価値がある意見はありましたか?人間、清廉潔白しか語らないでしょう?
ロハで金貰いたい。
正しくは無いでしょう。しかし、単純に貢献なしで利権や利益を享受したいという発想は誰しもっています。
であれば、そのようなシステムを構築するほかありません。
仕方なく価値を共有するべき意見を述べている他ありません。
単純に、お金が欲しいから価値を述べるのであって、当然の思考だと思います。何事もビジネスライクでいきたいですね。単純に己の貢献に価値があるという発想をそのままマインドに投入すれば、己の生み出した価値にギャップが生じるでしょう。
私は今はその状態です。
ギャップこそはありますが、それはプライドと呼ばれる実態なのでしょう。ギャップは持ちましょう。己はロハで宝くじを頂けるほど貢献をした人物だ。このマインドを常に持っていないと、世の中上手く回らないんじゃないか、と思えます。それだけ己の価値は高いのです。
私がではありません。全員そのくらい価値が高いのです。ただしそれを効率的に使えていないだけであるのです。
私は実体として宝くじを当てても良いのではないかとも思えます。
当てるだけの価値が孤独によって生み出されるのであれば、就職の修行もする必要性を感じないのであれば、尚更です。今ではロハで就労移行支援に通っていますが、その環境が素晴らしいと思うし、今の所は宝くじしても面白い社会が生まれそうな気がします。
ただし、宝くじを当てて孤独になってしまって、何も生まないという状態はどうなのでしょう。現実には想像が付きませんが、きっと己だけは楽しいでしょう。自分ひとりだけの世界は楽しいです。
そういう発想もあります。しかしコミュニティと一緒にいて楽しいという発想もあるでしょう。
単純にそれだけの発想でしかないし、単純に環境しだいの面もあるでしょう。己の一生分の価値は確かに宝くじ並みですが、実際己の思考の価値は全てありんこレベルです。
その自覚があるからこそ、どうとでも言える。
きっとアインシュタインはそう考えたでしょう。己の発言はありんこレベルだとも思っているでしょう。私も同感です。
所詮、価値というものは己の社会的ステータスから生じる程度でしかない、という意味です。ですからそういう本が売れたのでしょう。
人間下らない、と切り捨てることは簡単です。しかし他人に依存しなくちゃ生きていけません。
所詮その程度の理性でしかありません。あまり、善人のように考えることも、悪人のように判別することもどちらも危険です。
ですから、記事で意見書くことは危険を生みます。ですから社会的ステータスも取れないのでしょう。取るだけ無駄な事だとも思えます。
そもそも己の自己理解さえしてしまえば、全ての障壁はフリーです。そう考えて、世界一周を学生の頃に行ったりする人間も現れました。そのくらい人間遊んで生きていけます。そのくらい生産性の向上に伴うデフレ化の進行で価値は平均化されました。
不況と言っているこの状況で一体誰が深く他人に依存しているのでしょう。孤独社会も形成可能なくらい、経済的な依拠はあまり関係ない、と主張される孤独な方は大勢いらっしゃいます。
その答えが経済的自立、精神的自立で生み出される価値はやがてビジネスに応用され他人の思いやりが生まれるということです。
孤独な人間は善を知っている。
経済的な自立は自由と貢献を生み出す。
精神的な自立で、ビジネスにおける心の障壁はある程度解消されるでしょう。
そうして貢献しただけの価値をシェアしたいと願っている方も当然家族にはいらっしゃるでしょう。そのために子供を生み子孫を形成しコミュニティを形成します。
だから、他人に深く依拠するわけですね。
アインシュタイン博士の言葉の解説をしているのは、自分もアインシュタイン博士並みのトップダウンを解釈したら面白いのではないか、と発案したためです。
以上、LOLでした。