仮想通貨と法定通貨、この両者は現在アメリカを中心として激しい立場の争いを繰り広げている。まるで将来のスタンダード決める戦いを見ているようでもあり、そこには一寸の油断を入れる間隙もないように見える。
それと同じように、欧州、北米、アジアなど、それぞれ地域ごとの流通通貨も、それぞれの立場で戦いのようなものを繰り広げているように見える。
例えば、1997年に発生したアジア通貨危機を顧みるように、現在の東アジア、東南アジア経済圏を包括するような共通通貨の提案はそれにあたるだろう。いわゆるアジア版ユーロのことを指しており、日本はそれに参加するか否かの議論もなされている。
少し話をずらして共通通貨の導入に関して言えば、イギリスがポンドを貫いても影響がなかったように、日本も円を保っていても問題はないという認識もあり、それは一理あるように思える。
流通における貨幣の存在は大きいものであり、それは太古の昔「モンゴル帝国時代」から見られてきたものである。モンゴル時代では、その広い国土ゆえに駅伝システムを導入し、長距離での価値伝搬を可能にした。
現在においては、その意味での東西というのは少しお門違いに聞こえる。誰でも飛行機で様々な場所へ行けるようになったからであり、東西というのは飽くまでもベルリンの壁に阻まれた東西ドイツのような象徴的存在になったと言っていい。
しかし、例えば、東南アジアで共通通貨が考案されたり、南アメリカ、中米地域で共通通貨が考案されたりする一方で、東アジアと欧州でそのような提案がされたことはない。あまりにも距離的に離れているからというのも理由の一つだが、基本的にはそこまでのスケールで流通を考えないからだ。
ウクライナ戦争では、ロシア軍が西の戦闘区域で不足している兵器を東のサハリンから動かして持っていくという動きがみられた。しかし、このような西と東を同時に扱えるようなレベルの力を持っているのは、それだけに強大な国だけであろう。
基本的には、流通は近場で起き、遠くなれば遠くなるほどにコンセンサスが必要になってくるものだと考えている。