メタバースの登場によって現れるだろう新人類に「メタ充」は必ずいるだろう。とはいえ、最近の日本語圏は英語を使う頻度が極端に増えてきているようにも思えるため、日本語のトレンドワードが今後出てくるかはわからない。
リア充は少し前に一世を風靡していた陰キャ・陽キャにあたる陽キャのことだが、それは将来的にメタ充に代わるかもしれない。
脱インターネット元年などという言葉を高らかに用いていろいろ活動していきたいと述べていたのは少し前の話だが、冷静になれと今は言いたい。そもそもここまでインターネットが浸透した世の中においてどうやって脱インターネットを今から実行すればいいのか、非常に疑わしい疑いである。
現に、2022年はいろいろとテック界の構造最適化が進んだとも考えられ、2021年までの常識が覆ったところも否めない。特に大きく考えが変わったのは変化をあおるような風潮が減ったことだ。もちろん、変化というのは肝心かなめの人生要素の一つだが、それ以外にも継続することが重要であるという考えも又、フォーカスアップされるようになった。
人生はシーソーゲームのようなもので、片方のシーソーが上がっていればもう片方のシーソーが下がるのは当然のことだ。最近では、リア充という言葉が死語になりつつあるのか、メタバースの影響力がすさまじいのかは知らないが、全く耳にしなくなった。
Youtubeも明らかに衰退をたどっており、代わりに出てきたShortsやDiffusionモデルが世間を席巻し続けている。それらの勢いはゆっくりとだが着実に新しい世界観を構築しているのは間違いない。かつてのYoutubeも2010年ごろは初音ミクという言葉のほうが有名であり、Youtuberというのは全く話題にもならなかった。
Twichで配信している多くのストリーマーもそのころにはほとんどが無名の実況者で、ニコニコ動画などが主な活動スペースだった。この流れでいけば、そのうちMagicedenやLooksRareで活躍するNFT商人の時代になることも視野に入れていいだろう。
そんな時代が訪れれば、リア充はいなくなり、新しい資本階級が出てくることになる。
イギリス人は貯金をしない、なぜなら若いころにバカンスにお金を投じ、不動産を借金して買って老後にそこからの収入を経て暮らすからだ。その一方で日本は貯金か投資がメインであり、不動産がどうのこうのなんて話は微塵も出てこない。しかし、メタ充という圧倒的新階級がそこら中に出現すれば、イギリスのような公式的蓄財モデルが出来上がるのではないかとも考えている。
ここでメタ充になるのに重要なのは何なのかという話だが、個人的にそれはIPとか、サイバネティクス、乃至は暗号系における領地だろうと考えている。例えば最近話題のStableDiffusionは、その学習データをPinterestやWordpress、DeviantArtなどの大手画像ウェブサイトから採用していることが明らかになっており、一部物議をかもしている。
この話題が暗示するところは、結局のところIP、乃至はなにかしらの技術的独自性がメタ充に求められるということである。これは以前に同じようなことを書いた記事でも説明した気がしており、デジャヴだったりする。イメージの内容ではなく、命令文、乃至は出始めの一文がすべてであるというようなことである。
最終2020年後半にメタ充が跋扈する日本になっていた場合様々な社会的影響が考えられるが、そのうち悲観的にとらえられそうなのはメタ充度合いの格差だろう。もちろん日本社会においてはこれまで多くの年月を経て、人間の身分や門地に関する取り決めや争いがみられてきた。しかし、現状をめぐる産業革命後の階級社会は、明治維新前の階級社会的規範が同様に通用するのかは不明瞭な部分がある。
先ほどイギリスについて述べたが、イギリスは確かに階級で分けられた社会構造を認めており、それは下記に示したような区分けになっていたりする。
経済、社会、文化的資本に加えて、現在では人的資本といわれる、人間性そのものへの評価まで考えられていたりするので、4軸結合で見たときの総合的な分離社会が待ち受けていると仮定すれば、割とカオスな現状が期待できる。
メタ充に重要なのは、上記のうち社会的資本と文化的資本、そして人的資本である。端的に言えば、自分の価値をどの程度IPへ反映できているのか、というところだが、ある意味でこの考えは危険もはらんでいる。それはますます発展を続けるテクノロジーとの共存を前提とした考え方だからだ。もしも、それを是としない場合、メタバース的な何かに人生の活動時間を投下するのは意味がないことになる。それは同時に、メタ充という概念すらも崩壊する。
メタ充についてはこの記事でしか使っていない特殊すぎる用語で、別に流行らそうともしていないので深くは述べないのものの、労働の足かせのような存在にならないことを祈るばかりである。