最近話題になっている問題の一つにアメリカの学費が高すぎる問題があります。日本とは異なり、高額な学費を要求されるアメリカですが、給与水準は高く、日本の二倍ほどあります。よくアメリカの物価といわれて思い出すのがその高さです。何を食べるにも飲むにも日本の数倍の料金を払わなければならないというイメージが根深いアメリカですが、現地在住の方の話を聞くと食費や居住費は抑えようとすれば抑えられるとのことでした
このことからわかるのが、アメリカでは日本よりも激しい学歴社会があるということでしょう。頑張れば1か月200ドルの食費で抑えられる一方で、1年間の学費は日本の2倍以上するわけですから、いかに大学が高いものとして認知されているのか伺うことができます。
最近話題の問題の中枢にあるのは学費ローンの免除を最高裁が認めなかったことにあります。これはアファーマティブアクションといわれるケネディ政権以来続いてきたアメリカ社会の多様性を定義付ける特徴の一つとも言えますが、その考えに待ったをかける形となっています。
将来的な最高裁と政権との間の亀裂がどうなるのかはわかりませんが、これまで歩んできたアメリカの特徴ともいえる多様性社会に水を差す形となるのは間違いないでしょう。誰にでも平等の機会を与えるということに対する限界が来ているという風に見受けられます。
これまでバイデン政権は学費ローン問題に対して「年収1万2千ドル以下の経済状況にある」人に対して最大で2千ドルの救済資金を提供するという公案を掲げてもいます。このような取り組みからバイデン政権がアファーマティブアクションに対してフレンドリーな立場をとっていることが分かりますが、一連の報道から見るに米国の最高裁からは違憲判決を出されていることに賛同しているため、明確に対立しているということになります。
現に、この最高裁の判決には政権だけではなく多くのアメリカのテック企業からも反発を受けており、今後の動向は一層目を離せないものとなっているというわけです。
アメリカの学生はこぞって大学に行くわけですが、そのほとんどが返せる見込みのない多額の借金を背負っています。この借金について、学士号をとるために本当に借りるべきなのか?そこまでして手に入れる学士号や修士号などの学位にどのような意味があるのかを再度考え直すべき時が来ているのかもしれません。
実際、学士号や修士号などがどのような強みを持っているのかは経済的側面を抜きにするとあまりわかないのではないでしょうか。そもそも、学士号や修士号を取るという行為が、ほとんどの場合において将来より多くのお金を稼げるという一定の保証が見えていたからではないかと思えます。しかし、実際に卒業して学位に見合った給与を得ることは大学に入る人数が増え続けている以上難しいでしょう。
改めて、大学に行く重要性が見直される時期に来ているとも感じていますが、仮に大学卒業をしたからといっていい賃金を受け取る職業につけるわけではないといわれたら、みんながみんな大学卒業を目指すのでしょうか?もしもそうではなかった場合、大多数の大学受験を目指す人は「金目当て」であると揶揄されてもおかしくはありません。それは言い換えれば「学問への関心があると見せかけている」わけですから。
逆に言えば、この出来事が今後の米国社会の風潮を変えるかもしれません。今の段階で大学ローンの見直しが入るということは将来的に今以上に多様性への抑圧が大きくなっている可能性はあります。
しかし、現状アメリカ社会における多様性問題というのもまた深刻になっており、学費ローンの問題とは直結しないかもしれませんが、多様性重視に傾いてきた大学の傾向は変わっていく可能性もゼロではありません。
どちらにせよ、世界的に見ても非常に学費の高いアメリカの大学における動向が潮目を迎えつつあることは注目に値するのではないでしょうか。