エレベーターを降りる
「おはようございます」
挨拶しながら、四六時中解放された扉を抜ける。
着席し、朝の打ち合わせの資料に目を通す。
「はじめさん。朝一番で悪いけど」
向かい合わせの山積みされたファイルの隙間から声を掛けられた。
「なんか、オレやらかしたか?」とおもった。
声を掛けたのは伊藤主査というの女性だ。
主査というのは民間でいうところの係長職級に相当。省庁・団体・局によって役付けが曖昧な位置づけのクラス。必ずしも役職ということではない。
「無慈悲の伊藤女史」と呼ばれ、庁内の職員の中では監査よりも最大級に恐れられている有名人だ。
仕事は完璧で有能。残業はしない。勤務時間内に必ず終わらせる。
自分がここに来る前年に異動してきた。
規定から外れたことはいっさい受け付けない。職務遂行に正しく全うしているだけだが、こんなエピソードがあったらしい。
いきさつは知らないが。むかし、局長や上級職らに向かって、
「あたしの目の黒いうちはアンタらの好き勝手にさせない」
「公務として認められない予算、流用は一切認めませんからね」
年度末、余った予算をなにかしらに流用するわけだが、裁量は上級職らに一任されていた。そこに不満を持っていた正義感の強い彼女が爆発したらしいと他局の同僚から聞かされた。
数年後の移動と同時に事務長になる予定だ。どこに移動するかは分からないが、各部局の上級職の皆さま方は戦々恐々としているらしい。
伊藤主査のイメージ図。マカンコウサッポウ
「はい。なにかありましたか」
「この、領収書。切り下がっていないから書き直してもらって頂戴」
「はい!すみません!お手数を掛けました。早速、今日中に書き直しに。もらいに行きます!」
自分の確認ミスだ。
切り下がっていないというのは、消費税が導入されて1円未満の端数は切り下げる。お役所はこれが徹底されており、思いのほか面倒で手間が掛かる確認事項だ。
伊藤主査の机には今日も予算の申請書や請求書、領収書の束が山積みだ。すべて漏れなくチェック。提出期限が遅れようものなら誰にでもカミナリを落とす。局長もけっこう落とされていた。
普段、出入りしている業者だ。納入書の明細を見ながら金額を確認。間違いない。
「何で切り上がったのかなぁ・・・」
朝の打ち合わせも終わり、早速、電話を掛けて領収書の件を伝える。
一々、1円くらいの差でと思うかもしれないが税金である。
自分は6年間ずっと伊藤主査の向かい側の席に固定。席替えがあってもそのまま。
自分がここへ来たときの伊藤主査の開口1番。
「あなたがはじめさんね。はじめまして」
「あなたが県庁に入れたのは、ご両親様のおかげね」
「ご両親の仕事ぶりは知っているわ」
「親に恥をかかせないようにがんばらないとね」
これである。
期待されているのか。されていないのか。よくわからなかったが、最近は(結構、不器用な人なんだ)とわかってきた。
とりあえず使い物になるように鍛えられているんだなと思うようになった。
そして、自分がいるところは総務部と呼ばれるところだ。
組織としての大まかな分掌(ぶんしょう)は
総務課=県の組織、行政、行政評価、部内の人事や予算
法務課=法規・訴務、文書管理・行政手続き
財政課=県の予算・財務
税務課=県税
財産管理課=県有の財産管理・処分、庁舎内の施設の管理(公用車も含む)
市町村課=市町村の行財政支援
人事課=職員の人事
職員厚生課=福利厚生
財務資金室=公債・資金など
事務管理課=給与・福利厚生、出張費の集中処理、総務事務に関する全て
監察室=職員の服務、監察
省庁・自治体で呼び名の差はあるけど大体こんな感じ。
その中の事務管理課というところに籍を置いている。
別名「何でも屋さん」らしい。人手が足りないと他の課へ応援。
おかげで色々と覚えて仕事をする。
最近は法務の文書整理が大変でそっちに入り浸りだ。
「訂正した領収書は明日、持ってくるそうです」
「そっ。文書の整理・管理も大事だけど、こっちもおろそかにしないでね」
「はい」
「では、東庁舎に行ってきます」
文書の整理は別館の東庁舎内にある文書保管庫で行っている。
本庁から東庁舎まではちょっとした距離だ。歩くにはちょっと遠い。
藩庁あたりから直近の行政財政のすべての記録がここに収められている。同じ県庁勤めの職員でも保管庫は法務課以外は原則立ち入り禁止だ。
「はじめ。公用車借ります」
部内の鍵箱から鍵を取り、行き先と名前を記入。
自転車といえども公用車。間違いない。
整理することになった経緯は文書管理と外部向け閲覧検索にパソコンを使うことになり、あらたな仕分け基準(ソート)を設けて、年次ごとに手書きで区分や分類を書き込み並べていく。そのあと書架に置くのだが、先が見えないので段ボールに入れて床に山積みだ。時折、本庁舎や外の県事務所からも見つかってこちらに運ばれてくる。
自分の持ち場は古い公文書・古文書・地籍帳・地籍図など明治前後の藩庁時代まで出てくるから、年次設定や分類で困ることも。(達筆すぎて読めない)こんなとき古文に強そうな図書館司書が来てくれたらと思うが、限られた人員なので無理というものだ。
そんなことをここ数週間、黙々とこなしていた。
夕方の定時。とりあえず、ひと区切り。
「あがります。おつかれさまでした」
「おつかれさ-ん」
本庁に戻り、日誌を書き込む。
「内容・・・以上を継続。」
毎日、同じなんだよな・・・変わったことを書きたい・・・
そして、今朝。伊藤主査の書類の山積みだった机はきれいさっぱりと何もない状態。
さすがでございます。
入庁当時、主査に口ごたえや文句を垂れていた自分を殴りたい。
ちょっと机の上でぐったり。こんな姿は外部に見られたくはないので定刻内はしないのだが、さすがに腰がつらい。
机に突っ伏していると
「はじめくん。向こうさん、どんな感じ?」
「まだ、終わりが見えません」
突っ伏したまま返答。
「ふーん」「これから一杯いかないか?」
「すみません。今日、単車なのでこのまま帰ります」
「そっか、そっか」
そう言いながら局長は後ろを通り過ぎて廊下に出ていった。
うん。帰ろう。いつまでもここにいても仕方がない。
誰かが窓を開けた。ゴーっとたくさんの車の走行音が重なった音。街の騒音が聞こえてきた。
The Police - De Do Do Do, de Da Da Da
初めてちゃんとポリスを聞いたのは中学生の頃。アルバム「Zenyatta Mondatta(ゼニヤッタ・モンダッタ)」に入っている「De Do Do Do, de Da Da Da」がラジオから流れ、この曲に衝撃を受けてレコードを買いに行った。
つづく
RoundAbouT~ラウンド・アバウト~第一条「メリーゴーランドが始まる」