蓮馨寺(れんけいじ)は埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院です。中心的な建物は呑龍堂と呼び、呑龍上人(どんりゅうしょうにん)を祀ります。呑龍上人は捨て子等の悪習を廃止し、困窮者の子ども達を養育したことから「子育て呑龍」と呼ばれて尊敬と信仰の対象となりました。呑龍堂の提灯には呑龍上人と書かれています。
呑龍堂の前には、おびんずる様が鎮座します。この像は触ると病気が治る撫で仏とされます。おびんずる様は釈迦の弟子の十六羅漢 (じゅうろくらかん)の筆頭です。善光寺の像が有名です。みだりに神通力を用いたため、仏に叱られて衆生を救い続ける使命を持ちました。日本に入って病気を治す神通力で信仰されていることは不思議です。
境内には太麺焼きそば「まことや」と名代焼だんご「松山商店」があります。松山商店の焼きだんごを食べました。醤油の焼かれた香りが漂い、食べてみても醤油の焼かれた味が強烈です。広場の一角には佐世保バーガー、唐揚げ、焼きそば、じゃがバター、ベビーカステラなどの屋台が並び、賑わっていました。定期的に縁日が行われるなど世俗的な雰囲気のあるお寺です。
蓮馨寺は蓮馨大姉が天文18年(1549年)に建てました。蓮馨大姉は後北条氏の重臣で川越城主・大道寺政繁の母です。大道寺氏は北条氏の重臣である御由緒家の一つです。御由緒家は後北条氏の祖である伊勢新九郎(北条早雲)と共に関東に下った六人(大道寺、多目、荒木、山中、荒川、在竹)の家を呼びます。
早雲は六人と「この中の一人が大名になったら、他の者は家臣となってその人を盛り立てよう」と誓って関東に下りました。新九郎は大名になり、誓いの通り六人は重臣となりました。北条氏康が河越夜戦に勝利し、河越一帯を勢力下にすると大道寺盛昌(だいどうじもりまさ)が河越を治めました。大道寺氏は周勝、資親、政繁と続き、代々河越城主になっています。
蓮馨寺創建の天文18年(1549年)の時点では大道寺氏の家督は周勝です。政繁は天文2年(1533年)に生まれであり、先々代が健在であり、まだまだ実権を持っていませんでした。蓮馨大姉は政繁の母として知られていますが、政繁の母としてよりも大道寺氏の妻として蓮馨寺を建てたと言えるでしょう。蓮馨大姉の夫、即ち政繁の父が誰かが問題になりますが、盛昌説、周勝説、資親説があります。周勝と資親は親子ではなく、兄弟説があります。
政繁は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に際して上野国松井田城主として迎え撃ちました。しかし、多勢に無勢で降伏し、降伏後は豊臣勢の先陣となって鉢形城や八王子城を攻撃しました。ところが、北条氏直降伏後は豊臣秀吉に切腹を命じられました。秀吉のような独裁者に阿っても良いことはありません。
小田原平定後は徳川家康が関東を治めることになりました。増上寺の観智国師は江戸に入った家康に謁見し、檀越(だんおつ)となる約束を得ました。観智国師がかつていた蓮馨寺も重視され、関東十八檀林(浄土宗の僧侶の学問所)の一つになりました。葵紋の使用も許されました。
天正18年(1590年)には蓮馨寺の二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請し、川越熊野神社となりました。川越熊野神社の参道には会社や個人が寄進した提灯が掲げられていますが、その中に蓮馨寺のものもありました。
川越熊野神社は八咫烏がシンボル
蓮馨寺が祀る呑龍上人は慶長18年(1613年)に徳川家康が建立した上野国太田の大光院の開山となりました。呑龍上人は元和2年(1616年)に病気の父親に食べさせるために見沼で禁制の鶴を獲った少年・源次兵衛を匿い、幕府の追及を受けることになりました。さいたま市見沼区は徳川吉宗の時代に水田になり、見沼田んぼとして知られますが、当時は名前の通り沼地が広がり、野鳥の多い、自然豊かな場所でした。
師の観智国師が死の間際に呑龍上人の赦免を幕府に願い、元和7年(1621年)にようやく許されることになりました。NHK大河ドラマ『どうする家康』の家康は鯉のために家臣を手打ちにしないと言いましたが、民衆レベルでは悲劇もありました。
家康が豊臣氏を滅ぼす口実にした方広寺鐘銘事件は言いがかりの言論弾圧でした。言いがかりを正当化するために五山の僧侶らが動員されました。僧侶らは家康に迎合的な見解を述べた。平安時代の阿衡の紛議で「表現を理由に罰したら文章が廃れる」と表現の自由を守る意見書を出した菅原道真とは対照的でした。
阿衡の紛議で「基経を諫止ないし批判した菅原道真のごとき人物が出たことは痛快というべく、これに対し鐘銘事件では誰一人正面から家康に反対意見を開陳した者はなく、作者清韓を支持したのはわずかに妙心寺の海山和尚ただ一人であった」(村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年)。
方広寺鐘銘事件は近世の仏教が幕府の統制下に入ってしまうことを示す事件になりました。一方で呑龍上人や後の紫衣事件の沢庵のように骨のある僧侶も存在しました。
方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかり
『どうする家康』第45回「二人のプリンス」方広寺鐘銘は宣戦布告か
『どうする家康』第46回「大坂の陣」言論弾圧の徳川の汚名