1.2年前なんかはニュースを1日100本以上平気で読んでたりしてたけど、最近は読みたいニュースがなくなってきたなぁと感じていた。
以前は最新のテクノロジーや社会の変化のニュースをキャッチしてはTwitterやFacebookでコメントをつけてよくシェアをしてたけど、最近はほとんどしていない。
世の中にシェアまでしたいニュースがなくなってきたのか、あるいは、コメントをつけて意識高い風をするのに疲れたのか、あるいは社会が停滞して新しいテクノロジーや社会の仕組みのニュースがなくなったのか。
先日、気仙沼に行ってきた。いつものだるまとピアノとのコラボ動画を撮りにいくのと旅行も兼ねて。
気仙沼に行く予定もその場で飲み仲間と思いつきで企画しすぐに実行。そして被災地にいって現地の人に話を聞いたのは初めてでした。
そこでの体験や感じたことを別の記事に書く予定ですが、その後になぜ僕は最近ニュースに最初に書いたようなことを感じているのかわかった。
それは「どんな良いニュースでもニュースは体験をくれない」からだ。
そしてニュースをどんなに読もうとも僕は何かを作らないし、成果も出ない。
読んで何かを作った人はもともと作ってる人、結果を出してる人、出すために現在戦ってトライ&エラーを繰り返してる人なのだろう。
調べれば分かる時代に大事なのは現場での体験なのは言うまでもない。そしてもう一つ、結局何かが始まる時はその場所で始まっている。
情報や記事が何かを始めることはない。
「〇〇の場所でこんな事例がありました」
「人口1000人の山の麓のカフェに人が集まるわけ」
「人は1万時間専門性を磨けばプロになれる」
「YouTuberになるには動画を毎日投稿を続けること」
実際にする人、現地に行く人はどれくらいだろうか。
ほとんどの人が記事を読んでそれをシェアして得意げにそれを人に話す。
これによって僕の演奏が飛躍的に上手くなるわけでも、ウェブサービスに人が集まるわけでも、新しい事例が僕から生まれることもない。
こんなことに気づかなかった。
いままで僕が見ていたニュースの先の人はみな自分で行動した結果を語っていた。
自分もそうなりたいからニュースをみていた。が、それは遠回り。ではなく辿りつかない。。
実行して体験してそう思うように刻み込む。これをするのみ。
世の中が変わったのではない。僕が体験によってそこからの経験により変化したのだ。
そう感じた時に必要以上にニュースを見る回数が減ってしまった。
そのかわり増えたものがる。
個人の発信するクリエイトされたコンテンツ。
やはり面白い。
一番たのしいのは何かの黎明期だなぁなんて思ってる今日この頃。
餃子といえば宇都宮。そう聞いて餃子好きの僕は来週食べに行きます。小さな実行だけどやらなければいけない。この小さな小さな体験の連続が僕の全てを作るから。